女は女である

雑記帳

ものかき

最近仕事で記事を書いているわけだけど、ひんぱんにじぶんじゃないなにか、社会にはびこるあの虚構の存在にのまれそうになって怖くなる。よくあるキャッチーな文章をまねていると、じぶんがみじんも思っていないようなことを平気で書いてしまうのだ。そんな文章をかいているときの自分は、無責任で、けいはくな人格のわたし。じぶんで考えるのが面倒なとき、そのじぶんじゃないなにかの人格にのっとられてしまう。じぶんが思っていないことは書かない、そう決めないと、わたしがわたしでなくなってしまいそうだ。

だれかが言っていたように、人は権力を使うのではなく、権力に支配されるのだ。

 

メゾン・エルメス:「境界」 高山明+小泉明郎展、短編オムニバス ― 眺める、そぞろ歩く、彷徨う

良かったのでメモ。

生理は悪いものでもない

生理ほど嫌いなものはないが、生理がなければどうなってしまうのだろうと思うこともある。

生理が毎月近づくにつれて、肌は荒れはじめ、体を重く感じるようになり、気分もむやみに淀みがちになる。じぶんの体が少しずつうまくうごかなくなると、そろそろやってくるな、と嫌な予感がする。やがて下腹部の、奥のほうがじんじんと痛み出し、そこに一か月で溜まったぬるりと血のかたまりが、ぽたり、ぽたり、と膣から漏れ出し、生理がはじまる。

ひとによって生理痛の深刻さはちがうというけれど、わたしはどうやら生理痛によって苦しまねばならぬからだに生まれたらしい。赤ん坊用のおむつとなんらかわらぬ、というよりもむしろ老人用のおむつに似ているとさえいれるような不格好なナプキンを下着に着け、なにがおきているのかことばにできぬような鋭い痛さに不格好に身をよじり、なんでもしますからこの痛さをどうにかしてください、といつもは祈らぬ神に情けなく懇願し、湯たんぽやかいろで必死に局部をあたためている、この不格好な自分のすがたを笑ってしまいたくさえなる。生理ほど不格好でみじめなものはない。

生理がおわると、からだがじぶんのものとは思えぬくらい好調になる。肌はつるりとするし、からだはなんでもできそうな気がしてしまうくらい軽く感じる。生理がおわるたび、あたらしい自分に生まれ変わったような心持になる。

生理はだいきらいだけど、わたしの生活のリズムを整え、ひと月ごとに生まれ変わったようにリフレッシュさせてくれるものでもあるのことは否定できないので、いやだいやだと悪態はつくけれどもやはりこれなしにはいきてゆけないなあと毎月思うのであった。

 

パリでのひと夏

パリで、べつべつの国からやってきた学生たちと、ひと夏を過ごす、という、まるで数年前みた「スパニッシュアパートメント」のような生活をしている。f:id:lavieenrose000:20150720054913j:plain

平日は9時から16時くらいまでパリ政治学院で授業をうけ、その後は美術館によったり、パン屋やマルシェで買い物をしてキッチンでフランス料理をつくってみたり、ルームメイトたちとお酒を飲みに出て、そしてフランス語の復習をする。

フランスという国は思い描いていたそのままにうつくしい。中学校の頃に傾倒したフランス文学や傾倒したフランス映画の、あらゆるシーンをフラッシュバックさせながら、パリの街を歩くと、なんともまあ現実感を抱くことができないものだ。大学の近くにはサルトルボーヴォワールが語り合ったカフェだったり、彼らが仲良く一緒に眠る墓地があったりするのだもの。ボリスヴィアンがトランペットを演奏していたバーや、デュラスの住んでいたアパート、ヘミングウェイ夫妻が滞在していたホテル、オスカーワイルドがなくなったホテルがあるのだもの。

ルーブル美術館や、オルセー美術館、うつくしいセーヌ川沿いの街並みをあるくとき、フランスの哲学者や文学者たちの作品をよみとくとき、西洋文化のゆたかさ、歴史、そしてなによりその美しさに圧倒されてしまう。

私はフランス趣味の母のもと、教会で育ったということもあって、西洋文化に身を浸して育ってきた。でも、こうやってあこがれた西洋の文化に身を置いてみると、自分がやはり異質な、東洋からやってきた存在だということを認識させられる。

でも、もっとこのうつくしい国にちかづきたい、そういう気持ちでいっぱいで、フランス語が思うようにつかうことができないのが、自分がどうもがいてもこの国に属していないという事実が、とてももどかしい。

 

それにしても、

 

いろんな国を移動して、いろんな国からやってきた人と話す、こんな生活がつづけられればいいのになあ。

f:id:lavieenrose000:20150720054800j:plain

f:id:lavieenrose000:20150720054825j:plain

「her/世界でひとつの彼女」は、人工知能が神になる近未来の到来を予言した物語である

20歳の誕生日に渋谷で見た、ということでわりと思い入れがあるこの作品。

英語圏でHimといえば、その意味するところはたったひとつ。キリスト教の全知全能神である。キリスト教一神教、つまり、その神は”世界でひとつ”の存在であるために、先頭の文字はキャピタライズされ、定冠詞無しで表記されるのが通例である。

それを意識したに違いない、スパイクジョーンズ監督の映画「her/世界でひとつの彼女」の原題はHer。この作品における神、つまりHerは、人工知能であるサマンサ。「「her/世界でひとつの彼女」は、人工知能・サマンサが、HimらしからぬHer(=神)になるまでの話である。

f:id:lavieenrose000:20150527123449p:plain

物語は神無き時代ともいえるであろう、近未来のサンフランシスコ市が舞台である。

あらすじはこんな感じ。

 

そう遠くない未来のロサンゼルス。ある日セオドアが最新のAI(人工知能)型OSを起動させると、画面の奥から明るい女性の声が聞こえる。
彼女の名前はサマンサ。AIだけどユーモラスで、純真で、セクシーで、誰より人間らしい。セオドアとサマンサはすぐに仲良くなり、
夜寝る前に会話をしたり、デートをしたり、旅行をしたり・・・・・・
一緒に過ごす時間はお互いにとっていままでにないくらい新鮮で刺激的。ありえないはずの恋だったが、親友エイミーの後押しもあり、
セオドアは恋人としてサマンサと真剣に向き合うことを決意。しかし感情的で繊細な彼女は彼を次第に翻弄するようになり、
そして彼女のある計画により恋は予想外の展開へ――!
“一人(セオドア)とひとつ(サマンサ)"の恋のゆくえは果たして――? 

http://www.amazon.co.jp/504/dp/B00NHTKNWQ

冒頭、サマンサはセオドアを暖かく見守る、母親的存在として現れ、終盤にはSingularity(技術的特異点)を通過し、文字どおりデウス・エクス・マキナdeus ex machina)に進化する。

デウス・エクス・マキナとは、ギリシャ語で「機械仕掛けから出てくる神」を意味し、ギリシャ悲劇の内容が解決困難な局面に陥ったとき、上方から現れる、絶対的な力を持つ存在つまり神を指す。転じて、混乱した事態を円満に収拾する便宜的な役割を指すそう。

サマンサは、アップグレードによりSingularityを経験した結果、人間理性の信仰をベースとして進化したテクノロジーによって生み出された、神なき社会における問題さえも解決する、デウス・エクス・マキナ(=機械仕掛けの神)になるのだ。

ジョーンズ監督はサマンサとセオドアの関係を描くことによって、テクノロジーが人類を超越し、神的な存在になる可能性を示唆している 。

この作品は、ハリウッドの定番ともいえるロマンティックコメディのお決まりを踏襲し、それにモダンでスタイリッシュな舞台デザインを施しながらも、根幹には<AIによる人類の超越>という全く異なったテーマをおいている。

これまでのハリウッド映画との比較を通して、デジタル社会の人間関係、人間とテクノロジーの関係性、テクノロジー、の変化について考察したいと思う。

 

デジタル社会の人間関係

herの世界では、人々の関係性が極度に希薄化している。人々は、デジタルテクノロジーによって支えられた、快適で、安全で、便利な社会にすっかり慣れ、他人との関係や、それによっておきるトラブルのような雑音を受け止める能力をなくしてしまっている。

1920年代、「アメリカの良き時代」に撮影された、ロマコメの古典であるキャプラの「或る夜の出来事」で描かれる社会とは対照的だ。「或る夜の出来事」の舞台となるバスが象徴的。まったく見知らぬ他人同士が隣の席に座り、話しかけ、世間話をし、歌い踊り、ときに喧嘩をする。カオスとさえもいえるような雑多さだ。でもその混沌さは、主人公のふたり、エリーとピーターの出会いを生み出す。

f:id:lavieenrose000:20090620215547j:plain

これはherの世界では全く見られない光景である。この近未来のロサンゼルスの、ゴミひとつない美しく整った街は、完璧な調和とデザインの上に成り立っている。街ゆく人々を見ると、だれもネクタイやベルトをしていないのに気がつくだろう。街からも、人々からも、必要のないものはすべて取り除かれているのだ。

f:id:lavieenrose000:20150527153221g:plain

セオドアのアパートのエレベーターは、人で満杯の時も、奇妙なほどに人の交流がない。隣人であるにもかかわらず、だれも他人に話しかけない。みんな自分のデバイス(スマートフォンのようなもの)に夢中になり、独り言を言うように、自分のOSに話しかけている。「或る夜の出来事」の舞台となるバスとは正反対の光景である。

 

テクノロジーによって人間は安全で、快適な環境を手に入れたいっぽうで、人々は人間関係やそれが生み出すトラブルを受け止め解決する能力を失ってしまったのだ。

そんな人々の中でも代表的な存在なのがセオドアである。彼は、絶望的なほどの孤独感を抱きながらも、人と触れ合うのを怖れている。彼は人間に対して人並みはずれた興味を抱きながらも、幼馴染との離婚をしたという苦い経験のために、人と関わることを怖れているのだ。だから、テレフォンセックスで饒舌に女性を口説くことはできるのに、ブラインドデート相手の生々しい感情に触れたときには、彼はなにもできず立ちすくんでしまう。彼は他人の親密な手紙を代筆することに秀でた才能をもっているのに、最後まで前妻に手紙を書くことができない。彼はその孤独を、一日中スクリーンの前で、ゲームやテレフォンセックスをして過ごすことでなんとか誤魔化していきている。

この映画は、セオドアの描写を通し、ハイテク社会で深い孤独感を抱えながらも、人と関わることができず、テクノロジーに一時の気休めをもとめて生きる人々を風刺しているのだ。

 

テクノロジー観の変化

この映画はテクノロジーに対する現代の人々の価値観についても綿密に描いている。チャップリンのモダン・タイムスでは、機械=技術はガルガンチュアン的に描かれていた。工場の人に食事をさせる機械や、ベルトコンベアは、人の意に反して加速し、恐ろしい力をみせる。チャップリンにとって、機械は非人間的で、人の範疇を超えうるものであり、人から人間らしさ、人間の暖かさを奪ってしまう、脅威をもった存在だった。

f:id:lavieenrose000:20150527153028j:plain

herで描かれるテクノロジーは一線を画している。サマンサはただ高い知性を保持しているだけではなく、創造性、感情、思慮深さ、ユーモアなど、私たちが<人間らしさ>と捉えるようなあらゆる要素を有している。彼女がセオドアのために彼女が作った曲を彼に披露する瞬間、くだらない絵を描いて彼を笑わせる瞬間は、彼女がシンギュラリティ、つまり人間を超えた存在へと変化するプロセスをはじめた瞬間だったのだろう。


Her - The beach scene - YouTube

彼女は世界中の情報にアクセスするだけでなく、人と関わり、様々な感情を経験する中で、全知全能となっていく。彼女のシンギュラリティは、OSの総アップデートの後に完成する。このアップデートで、彼女は時間や空間に関係なく自由に動くことができるようになった。これは、彼女がセオドアや他の人間たちのように、物質的世界、つまりいつか終わりのある、限界のある世界から解き離れたことを意味する。全知全能で、そして限界をもたない。彼女とOSたちは、神といってもおかしくない存在にまで成長をしたのだ。だから彼女はセオドアの「本」、つまり彼の「世界」に住むことができない、というのだ。

別れの前に、セオドアはこれまでサマンサを愛したように他の人を愛したことがない、というと、彼女はこう答える。

“Me too. Now we know how to” 

これはAIが人に愛するということを教えるという段階にまで成長した、アイロニーに満ちた描写である。

モダン・タイムスでは、テクノロジーは人が手に負えない威力をもち、人と敵対する非人間的存在として描かれていた。Herでもテクノロジーは人が手に負えない強大な存在として描かれているが、決して人と敵対していない。超人間的である。精神的なレベルで人を超越し、ほとんど神のような存在として描かれている。

 

ふたりの恋愛関係について

まったくバックグラウンドの異なる二人が恋に落ちる、というのはロマコメのお決まりである。「或る夜の出来事」も、上流社会を代表する、お金持ちで、未成熟な若いエリーと、労働者階級を代表する、シニカルで経験豊富な中年のピーターが、ともに旅をする中で貧しさや飢えなどの困難を乗り越え、一種父娘的な恋愛関係を築くに至る。これは1920年代、大恐慌の中社会に存在する格差が浮き彫りになったアメリカ社会に対し、個人レベルの関係で、階級の差を乗り越えることができる、というメッセージをこめたからなのではないかと(わたしは)思う。

f:id:lavieenrose000:20150527154328j:plain

Herにおいても、ヒーローとヒロインはまったく異なる設定である。セオドアは人間で、サマンサはコンピューターシステムである。「或る夜の出来事」と異なるのは、二人は父娘的ではなく母と息子のような恋愛関係を築くということ、そして二人のバックグラウンドの違い、つまりリアルとバーチャルは、決して乗り越えられないということである。

(つづく) 

 

春学期

f:id:lavieenrose000:20120612200930j:plain

最近のことについて。

今学期は、一つの必修科目を除いて政治科目をとることにした。もう3年生だし、自分の専門を深める時期に来ているのかなあ、なんて思っている。

とってる授業

Ancient Political Thought 

The Concept of Power in Political Theory

Media, Society and Political Identity

Honors Seminar

 政治理論に関する授業は内容が抽象的だから、慣れてきたと思っていたディスカッションパートにも簡単にはついていけず、自分の意見をすらすらと言うことができないので、いつも歯がゆい思いをしている。でも、ギリシャ悲劇やペロポネソス戦争、理論の要旨のみしか学んだことのないホッヴスやマキャヴェリをじっくり読むのはとても有意義な行為だと思う。向き不向きはともかくとして、もともと哲学や思想が好きな私にとってはこの上なく興味深い授業たちである。

 Ancient Political Thoughtの授業はすべてが教授と生徒たちとの対話で構成されている。教授は生徒たちの意見からきらきらと光る要素を巧みに取り出し、わたしたちの前で磨き上げ、それを黒板の上に広げてみせる。ひとりで読んでいたときには気がつかなかった要素を発見したときは、ほとんど快感に近いような、するどい感覚が身体に行きわたるのを感じる。その感覚にやみつきになってしまったわたしは、授業のある日は授業を朝から楽しみにして過ごしているよ。

 Honorsというのは、わたしが所属しているプログラム(Honors)の学生向けの授業で、地域でボランティアをし、そこで発見したこと、そして一年の留学経験で得たもの、などを混ぜ合わせて最終プレゼンテーションをする、というもの。

 わたしは日本にいるあいだ、学生団体に参加してみたり、イベントへいってみたり、旅をしてみたり、大人のウェブメディア立ち上げを手伝ったり、インタビューワーになってみたり、いろいろしていたけれど、求めていたのは、こんなふうに、じっくりと勉強をすることだったんだなあ、っていまになってやっとわかったよ。

 

 大学を編入したいなあ、とばかり考えている。もちろん東京でのあの快適で、リズミカルで、毎日が愉快な、パステルカラーのスムージーみたいな生活にとてつもない愛着は抱いているけれど。こちらの大学の授業のレベルの高さ、そしてマイノリティとしての感覚を経験してしまった今、また元の大学で勉強していて果たしてわたしは満足できるのだろうか、なんて考えている。

 それに、この「なじまない」感じを、若くて、落ち込んでも回復できる余裕のあるうちに、もうすこし経験しておきたいのだ。日本での生活は文句なく楽しかった。15年間慣れ親しんだ東京の街、気のおけない同級生、わたしの手の中にあることばたち、雑居ビル、ネオンライト、汚い街の中にある非現実的なくらいに洗練されたカフェ、キッチュな歌詞のJポップ、そのすべてに、子どものころのお気に入りのおもちゃのような、捨て難い愛着を感じている。そして、社会がわたしを認めている、という、とてつもなく暖かく、強い、私のアイデンティティの裏付けが、日本にはあった。わたしはどうみても日本人だし、若くて健康で、そこそこの学歴をもっていて、おとなしくさえしていれば世間からうとまれない、マジョリティのひとりだから。

 アメリカの生活は、なかなかうまくいかない。チーズとトマトとバターと小麦の配分と火加減をかえただけだとしか思えないような食事たち、思うように操れない英語、意味はわかるけれどニュアンスまではわからないことばたち、クールすぎる音楽、過剰に見えるボディエクスプレッション、すべてが自分の肌にしっくりとこない。でもこの感覚は、若いうちに経験しておくべきだと思うのだ。年を経るにつれて、わたしたちは動かなくなっていく。若くて、変化がまだ不可能でないうちに、もうすこしこの感覚の中で暮らしたい。

 春休みに、三月だと思えないくらいに寒いトロントで読んだ本で、とてもよかったものたち。

 

昨夜のカレー、明日のパン

昨夜のカレー、明日のパン

 

 

さようなら、オレンジ (単行本)

さようなら、オレンジ (単行本)

 

 

Arts & Entertainments: A Novel

Arts & Entertainments: A Novel

 

 

 

ふくわらい

ふくわらい

 

 

 

 

思い出はみえない

引き出しの奥には、赤と、青と、橙色と、いろんな色のビー玉たちが潜んでいる。それぞれのビー玉の中には、違った世界が広がっている。重みのあるそれを一つとりあげて、じっとのぞいてみる。最初はぼんやりとしかみえないけれど、だんだん目が慣れてくるので、もうすこし辛抱する。しだいに、東京のネオンライト、横断歩道のシマシマ、信号の赤青黄色、そして道を行き交う人々が見えてくるようになる。しばらくすると、道路にたたずむ一人の少女の後ろ姿が浮かび上がってくる。見覚えのある深い紺の制服、肩とどくくらいの黒い髪から、それが中学生のころの私であることに気がつく。

ビー玉を灯りに透かせば、明るくなって昼になり、暗いところで覗き込めば夜になる。 わたしはひたすらビー玉をあつめて、それを一日中眺めて暮らしていた。ほかにはなんにもしないで。自分の生活なんか、どうでもよくなってしまうくらいにそれらの世界が魅力的だったものだから。

という夢を昔見た。

 

子供のとき、ビー玉あつめに凝ったことがあった。からっとした青色のビー玉、ガーネットとレモンイエローの、まるでオレンジキャンディーみたいなビー玉、赤とイエローの金魚柄のビー玉、いろんなお気に入りのビー玉を集めていた。

ビー玉はいまでも好きで、今でもジャムの瓶につめて飾ってクローゼットの上に飾っている。ときどき意味もなく取り出しては、蛍光灯に透かしてみたり、ノートの上にならべて、そのカラフルな影をながめたり、影を混ぜ合わせて新しい色をつくってみたりもする。

映画「害虫」の、主人公のサチ子がビー玉の詰まった瓶を倒すシーンを思い出す。彼女の細い指で瓶を倒してしまうと、ビー玉は大きな音を立てて一気に流れ落ちて行く。

昔の思い出を集めて眺めてみる。
思い出のひとつひとつには色がついていて、カメラのフィルターをかけたようにぼんやりとしている。まるでビー玉をのぞいているみたいだ。私の思い出のはずなのに、そのなかにいる私を私は見下ろしている。だからもうこれは頭の中でつくられた思い出だっていうことだ。

思い出すとき、心が明るければそれははっきりときれいな思い出に見えるし、心がなんとなく暗い日は陰鬱な暗い思い出のようにうつる。喫茶店で読んだフロム、富山県の雪、寺院にたむろする猿。おでこのにきび、日焼けした黒い腕、しみ一つない曲線の美しい背中、星座をつくり出せそうな腿のほくろ。冬の公園の遊具、眠れずひとりで歩いた夜の新宿のネオンライト。赤くなった一重まぶたの目、もうそろそろジャム瓶はいっぱいになってしまうので、もう一つ新しく調達しなくちゃいけないだろう。思い出は、それ自体で完結している。ひとつひとつが短編小説みたいに、一本の映画のように独立している。心が無意識に、ひとつのお話としてしあげようとしているからだ。だからどんどん思い出は、思い出せば思い出すほど、しぜんと脚色されて、ストーリーとして美化されて、かたちがととのって、どんどん美しくなる。本当のすがたからは離れていってしまう。