女は女である

雑記帳

東京

生きていくということは、昔思っていたよりもむつかしくないような気がする。でも、やさしく、きれいなものを大切にしながら生きてくのは本当にむつかしいと思う。

東京はなんでもある。

ものがありすぎる。豆乳をのみたいとコンビニによれば、3種類くらいの類似の商品がならんでいてえらぶのも一苦労だ。チョコレートを買おうとしたって、ビスケットや板チョコ、焼きチョコ、生チョコ、これでもかという種類のチョコレートがさまざまなメーカーから売られている。

そして、人が多すぎる。アジア人にもこんなにバリエーションがあるのかとおどろくばかりだ。街を歩けば、聞きたくなくても耳に入ってくる会話、目はちかちかと点滅するネオンの文字が飛び込んでくる。すると、世界が私の周りにたちあがって、わたしを急き立てる。

電車の広告は、体中の毛をそりなさい、からだを無臭にしなさい、英語を勉強しなさい、婚活しなさい、とあらゆる手立てを用いてわたしをせきたてる。あれを買わなければ、これをしなければ、あそこへ行かなければ。広告にうつる、完璧な笑顔を浮かべた皺ひとつない妙齢の女性が、仕事も家事もこなし、お金があって、しかも余裕のある生活なんていうものを声高にうたう。そんなイメージにこころがまどわされ、でも、目を閉じることも耳をふさぐこともできるわけもなく、わたしはひたすらこころをそんなものたちに慣らすしかない。わたしのこころのなかの、かすかな声だってきこえるわけがない。路頭に迷うような情報の氾濫のせいで、すべてはかきけされてしまい、自分の心の声なんて存在するのかさえもわからなくなってしまいそうだ。

 

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ものかき

最近仕事で記事を書いているわけだけど、ひんぱんにじぶんじゃないなにか、社会にはびこるあの虚構の存在にのまれそうになって怖くなる。よくあるキャッチーな文章をまねていると、じぶんがみじんも思っていないようなことを平気で書いてしまうのだ。そんな文章をかいているときの自分は、無責任で、けいはくな人格のわたし。じぶんで考えるのが面倒なとき、そのじぶんじゃないなにかの人格にのっとられてしまう。じぶんが思っていないことは書かない、そう決めないと、わたしがわたしでなくなってしまいそうだ。

だれかが言っていたように、人は権力を使うのではなく、権力に支配されるのだ。

 

生理は悪いものでもない

生理ほど嫌いなものはないが、生理がなければどうなってしまうのだろうと思うこともある。

生理が毎月近づくにつれて、肌は荒れはじめ、体を重く感じるようになり、気分もむやみに淀みがちになる。じぶんの体が少しずつうまくうごかなくなると、そろそろやってくるな、と嫌な予感がする。やがて下腹部の、奥のほうがじんじんと痛み出し、そこに一か月で溜まったぬるりと血のかたまりが、ぽたり、ぽたり、と膣から漏れ出し、生理がはじまる。

ひとによって生理痛の深刻さはちがうというけれど、わたしはどうやら生理痛によって苦しまねばならぬからだに生まれたらしい。赤ん坊用のおむつとなんらかわらぬ、というよりもむしろ老人用のおむつに似ているとさえいれるような不格好なナプキンを下着に着け、なにがおきているのかことばにできぬような鋭い痛さに不格好に身をよじり、なんでもしますからこの痛さをどうにかしてください、といつもは祈らぬ神に情けなく懇願し、湯たんぽやかいろで必死に局部をあたためている、この不格好な自分のすがたを笑ってしまいたくさえなる。生理ほど不格好でみじめなものはない。

生理がおわると、からだがじぶんのものとは思えぬくらい好調になる。肌はつるりとするし、からだはなんでもできそうな気がしてしまうくらい軽く感じる。生理がおわるたび、あたらしい自分に生まれ変わったような心持になる。

生理はだいきらいだけど、わたしの生活のリズムを整え、ひと月ごとに生まれ変わったようにリフレッシュさせてくれるものでもあるのことは否定できないので、いやだいやだと悪態はつくけれどもやはりこれなしにはいきてゆけないなあと毎月思うのであった。

 

パリでのひと夏

パリで、べつべつの国からやってきた学生たちと、ひと夏を過ごす、という、まるで数年前みた「スパニッシュアパートメント」のような生活をしている。f:id:lavieenrose000:20150720054913j:plain

平日は9時から16時くらいまでパリ政治学院で授業をうけ、その後は美術館によったり、パン屋やマルシェで買い物をしてキッチンでフランス料理をつくってみたり、ルームメイトたちとお酒を飲みに出て、そしてフランス語の復習をする。

フランスという国は思い描いていたそのままにうつくしい。中学校の頃に傾倒したフランス文学や傾倒したフランス映画の、あらゆるシーンをフラッシュバックさせながら、パリの街を歩くと、なんともまあ現実感を抱くことができないものだ。大学の近くにはサルトルボーヴォワールが語り合ったカフェだったり、彼らが仲良く一緒に眠る墓地があったりするのだもの。ボリスヴィアンがトランペットを演奏していたバーや、デュラスの住んでいたアパート、ヘミングウェイ夫妻が滞在していたホテル、オスカーワイルドがなくなったホテルがあるのだもの。

ルーブル美術館や、オルセー美術館、うつくしいセーヌ川沿いの街並みをあるくとき、フランスの哲学者や文学者たちの作品をよみとくとき、西洋文化のゆたかさ、歴史、そしてなによりその美しさに圧倒されてしまう。

私はフランス趣味の母のもと、教会で育ったということもあって、西洋文化に身を浸して育ってきた。でも、こうやってあこがれた西洋の文化に身を置いてみると、自分がやはり異質な、東洋からやってきた存在だということを認識させられる。

でも、もっとこのうつくしい国にちかづきたい、そういう気持ちでいっぱいで、フランス語が思うようにつかうことができないのが、自分がどうもがいてもこの国に属していないという事実が、とてももどかしい。

 

それにしても、

 

いろんな国を移動して、いろんな国からやってきた人と話す、こんな生活がつづけられればいいのになあ。

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「her/世界でひとつの彼女」は、人工知能が神になる近未来の到来を予言した物語である

20歳の誕生日に渋谷で見た、ということでわりと思い入れがあるこの作品。

英語圏でHimといえば、その意味するところはたったひとつ。キリスト教の全知全能神である。キリスト教一神教、つまり、その神は”世界でひとつ”の存在であるために、先頭の文字はキャピタライズされ、定冠詞無しで表記されるのが通例である。

それを意識したに違いない、スパイクジョーンズ監督の映画「her/世界でひとつの彼女」の原題はHer。この作品における神、つまりHerは、人工知能であるサマンサ。「「her/世界でひとつの彼女」は、人工知能・サマンサが、HimらしからぬHer(=神)になるまでの話である。

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物語は神無き時代ともいえるであろう、近未来のサンフランシスコ市が舞台である。

あらすじはこんな感じ。

 

そう遠くない未来のロサンゼルス。ある日セオドアが最新のAI(人工知能)型OSを起動させると、画面の奥から明るい女性の声が聞こえる。
彼女の名前はサマンサ。AIだけどユーモラスで、純真で、セクシーで、誰より人間らしい。セオドアとサマンサはすぐに仲良くなり、
夜寝る前に会話をしたり、デートをしたり、旅行をしたり・・・・・・
一緒に過ごす時間はお互いにとっていままでにないくらい新鮮で刺激的。ありえないはずの恋だったが、親友エイミーの後押しもあり、
セオドアは恋人としてサマンサと真剣に向き合うことを決意。しかし感情的で繊細な彼女は彼を次第に翻弄するようになり、
そして彼女のある計画により恋は予想外の展開へ――!
“一人(セオドア)とひとつ(サマンサ)"の恋のゆくえは果たして――? 

http://www.amazon.co.jp/504/dp/B00NHTKNWQ

冒頭、サマンサはセオドアを暖かく見守る、母親的存在として現れ、終盤にはSingularity(技術的特異点)を通過し、文字どおりデウス・エクス・マキナdeus ex machina)に進化する。

デウス・エクス・マキナとは、ギリシャ語で「機械仕掛けから出てくる神」を意味し、ギリシャ悲劇の内容が解決困難な局面に陥ったとき、上方から現れる、絶対的な力を持つ存在つまり神を指す。転じて、混乱した事態を円満に収拾する便宜的な役割を指すそう。

サマンサは、アップグレードによりSingularityを経験した結果、人間理性の信仰をベースとして進化したテクノロジーによって生み出された、神なき社会における問題さえも解決する、デウス・エクス・マキナ(=機械仕掛けの神)になるのだ。

ジョーンズ監督はサマンサとセオドアの関係を描くことによって、テクノロジーが人類を超越し、神的な存在になる可能性を示唆している 。

この作品は、ハリウッドの定番ともいえるロマンティックコメディのお決まりを踏襲し、それにモダンでスタイリッシュな舞台デザインを施しながらも、根幹には<AIによる人類の超越>という全く異なったテーマをおいている。

これまでのハリウッド映画との比較を通して、デジタル社会の人間関係、人間とテクノロジーの関係性、テクノロジー、の変化について考察したいと思う。

 

デジタル社会の人間関係

herの世界では、人々の関係性が極度に希薄化している。人々は、デジタルテクノロジーによって支えられた、快適で、安全で、便利な社会にすっかり慣れ、他人との関係や、それによっておきるトラブルのような雑音を受け止める能力をなくしてしまっている。

1920年代、「アメリカの良き時代」に撮影された、ロマコメの古典であるキャプラの「或る夜の出来事」で描かれる社会とは対照的だ。「或る夜の出来事」の舞台となるバスが象徴的。まったく見知らぬ他人同士が隣の席に座り、話しかけ、世間話をし、歌い踊り、ときに喧嘩をする。カオスとさえもいえるような雑多さだ。でもその混沌さは、主人公のふたり、エリーとピーターの出会いを生み出す。

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これはherの世界では全く見られない光景である。この近未来のロサンゼルスの、ゴミひとつない美しく整った街は、完璧な調和とデザインの上に成り立っている。街ゆく人々を見ると、だれもネクタイやベルトをしていないのに気がつくだろう。街からも、人々からも、必要のないものはすべて取り除かれているのだ。

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セオドアのアパートのエレベーターは、人で満杯の時も、奇妙なほどに人の交流がない。隣人であるにもかかわらず、だれも他人に話しかけない。みんな自分のデバイス(スマートフォンのようなもの)に夢中になり、独り言を言うように、自分のOSに話しかけている。「或る夜の出来事」の舞台となるバスとは正反対の光景である。

 

テクノロジーによって人間は安全で、快適な環境を手に入れたいっぽうで、人々は人間関係やそれが生み出すトラブルを受け止め解決する能力を失ってしまったのだ。

そんな人々の中でも代表的な存在なのがセオドアである。彼は、絶望的なほどの孤独感を抱きながらも、人と触れ合うのを怖れている。彼は人間に対して人並みはずれた興味を抱きながらも、幼馴染との離婚をしたという苦い経験のために、人と関わることを怖れているのだ。だから、テレフォンセックスで饒舌に女性を口説くことはできるのに、ブラインドデート相手の生々しい感情に触れたときには、彼はなにもできず立ちすくんでしまう。彼は他人の親密な手紙を代筆することに秀でた才能をもっているのに、最後まで前妻に手紙を書くことができない。彼はその孤独を、一日中スクリーンの前で、ゲームやテレフォンセックスをして過ごすことでなんとか誤魔化していきている。

この映画は、セオドアの描写を通し、ハイテク社会で深い孤独感を抱えながらも、人と関わることができず、テクノロジーに一時の気休めをもとめて生きる人々を風刺しているのだ。

 

テクノロジー観の変化

この映画はテクノロジーに対する現代の人々の価値観についても綿密に描いている。チャップリンのモダン・タイムスでは、機械=技術はガルガンチュアン的に描かれていた。工場の人に食事をさせる機械や、ベルトコンベアは、人の意に反して加速し、恐ろしい力をみせる。チャップリンにとって、機械は非人間的で、人の範疇を超えうるものであり、人から人間らしさ、人間の暖かさを奪ってしまう、脅威をもった存在だった。

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herで描かれるテクノロジーは一線を画している。サマンサはただ高い知性を保持しているだけではなく、創造性、感情、思慮深さ、ユーモアなど、私たちが<人間らしさ>と捉えるようなあらゆる要素を有している。彼女がセオドアのために彼女が作った曲を彼に披露する瞬間、くだらない絵を描いて彼を笑わせる瞬間は、彼女がシンギュラリティ、つまり人間を超えた存在へと変化するプロセスをはじめた瞬間だったのだろう。


Her - The beach scene - YouTube

彼女は世界中の情報にアクセスするだけでなく、人と関わり、様々な感情を経験する中で、全知全能となっていく。彼女のシンギュラリティは、OSの総アップデートの後に完成する。このアップデートで、彼女は時間や空間に関係なく自由に動くことができるようになった。これは、彼女がセオドアや他の人間たちのように、物質的世界、つまりいつか終わりのある、限界のある世界から解き離れたことを意味する。全知全能で、そして限界をもたない。彼女とOSたちは、神といってもおかしくない存在にまで成長をしたのだ。だから彼女はセオドアの「本」、つまり彼の「世界」に住むことができない、というのだ。

別れの前に、セオドアはこれまでサマンサを愛したように他の人を愛したことがない、というと、彼女はこう答える。

“Me too. Now we know how to” 

これはAIが人に愛するということを教えるという段階にまで成長した、アイロニーに満ちた描写である。

モダン・タイムスでは、テクノロジーは人が手に負えない威力をもち、人と敵対する非人間的存在として描かれていた。Herでもテクノロジーは人が手に負えない強大な存在として描かれているが、決して人と敵対していない。超人間的である。精神的なレベルで人を超越し、ほとんど神のような存在として描かれている。

 

ふたりの恋愛関係について

まったくバックグラウンドの異なる二人が恋に落ちる、というのはロマコメのお決まりである。「或る夜の出来事」も、上流社会を代表する、お金持ちで、未成熟な若いエリーと、労働者階級を代表する、シニカルで経験豊富な中年のピーターが、ともに旅をする中で貧しさや飢えなどの困難を乗り越え、一種父娘的な恋愛関係を築くに至る。これは1920年代、大恐慌の中社会に存在する格差が浮き彫りになったアメリカ社会に対し、個人レベルの関係で、階級の差を乗り越えることができる、というメッセージをこめたからなのではないかと(わたしは)思う。

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Herにおいても、ヒーローとヒロインはまったく異なる設定である。セオドアは人間で、サマンサはコンピューターシステムである。「或る夜の出来事」と異なるのは、二人は父娘的ではなく母と息子のような恋愛関係を築くということ、そして二人のバックグラウンドの違い、つまりリアルとバーチャルは、決して乗り越えられないということである。

(つづく) 

 

思い出はみえない

引き出しの奥には、赤と、青と、橙色と、いろんな色のビー玉たちが潜んでいる。それぞれのビー玉の中には、違った世界が広がっている。重みのあるそれを一つとりあげて、じっとのぞいてみる。最初はぼんやりとしかみえないけれど、だんだん目が慣れてくるので、もうすこし辛抱する。しだいに、東京のネオンライト、横断歩道のシマシマ、信号の赤青黄色、そして道を行き交う人々が見えてくるようになる。しばらくすると、道路にたたずむ一人の少女の後ろ姿が浮かび上がってくる。見覚えのある深い紺の制服、肩とどくくらいの黒い髪から、それが中学生のころの私であることに気がつく。

ビー玉を灯りに透かせば、明るくなって昼になり、暗いところで覗き込めば夜になる。 わたしはひたすらビー玉をあつめて、それを一日中眺めて暮らしていた。ほかにはなんにもしないで。自分の生活なんか、どうでもよくなってしまうくらいにそれらの世界が魅力的だったものだから。

という夢を昔見た。

 

子供のとき、ビー玉あつめに凝ったことがあった。からっとした青色のビー玉、ガーネットとレモンイエローの、まるでオレンジキャンディーみたいなビー玉、赤とイエローの金魚柄のビー玉、いろんなお気に入りのビー玉を集めていた。

ビー玉はいまでも好きで、今でもジャムの瓶につめて飾ってクローゼットの上に飾っている。ときどき意味もなく取り出しては、蛍光灯に透かしてみたり、ノートの上にならべて、そのカラフルな影をながめたり、影を混ぜ合わせて新しい色をつくってみたりもする。

映画「害虫」の、主人公のサチ子がビー玉の詰まった瓶を倒すシーンを思い出す。彼女の細い指で瓶を倒してしまうと、ビー玉は大きな音を立てて一気に流れ落ちて行く。

昔の思い出を集めて眺めてみる。
思い出のひとつひとつには色がついていて、カメラのフィルターをかけたようにぼんやりとしている。まるでビー玉をのぞいているみたいだ。私の思い出のはずなのに、そのなかにいる私を私は見下ろしている。だからもうこれは頭の中でつくられた思い出だっていうことだ。

思い出すとき、心が明るければそれははっきりときれいな思い出に見えるし、心がなんとなく暗い日は陰鬱な暗い思い出のようにうつる。喫茶店で読んだフロム、富山県の雪、寺院にたむろする猿。おでこのにきび、日焼けした黒い腕、しみ一つない曲線の美しい背中、星座をつくり出せそうな腿のほくろ。冬の公園の遊具、眠れずひとりで歩いた夜の新宿のネオンライト。赤くなった一重まぶたの目、もうそろそろジャム瓶はいっぱいになってしまうので、もう一つ新しく調達しなくちゃいけないだろう。思い出は、それ自体で完結している。ひとつひとつが短編小説みたいに、一本の映画のように独立している。心が無意識に、ひとつのお話としてしあげようとしているからだ。だからどんどん思い出は、思い出せば思い出すほど、しぜんと脚色されて、ストーリーとして美化されて、かたちがととのって、どんどん美しくなる。本当のすがたからは離れていってしまう。

鈍感さという暴力、鈍感さという救い

藤野可織さんの「爪と目」、鹿島田真希さんの「冥土めぐり」を読んだ。

両方とも芥川賞を受賞したという共通点はあるものの、この2冊は違う作者によって書かれた全く違う話。でも、鈍感さが周囲に与える影響を描いているという点では同じといえる。

爪と目

爪と目

 

「あなた」は目が悪かったので父とは眼科で出会った。やがて「わたし」とも出会う。その前からずっと、「わたし」は「あなた」のすべてを見ている――。三歳の娘と義母。父。喪われた実母――家族には少し足りない集団に横たわる嫌悪と快感を、巧緻を極めた「語り」の技法で浮かび上がらせた、美しき恐怖作(ホラー)。(新潮社)

 

冥土めぐり

冥土めぐり

 
  • 裕福だった過去に執着する母と弟。家族から逃れたはずの奈津子だが、突然、夫が不治の病にかかる。だがそれは、奇跡のような幸運だった。夫とめぐる失われた過去への旅を描く著者最高傑作。

  • (河出書房)

3歳児がその継母を語る、一貫した二人称で書かれた「爪と目」は、ぞっとするようなお話。語り手である少女は、怒りも悲しみもなく、恐ろしいほど冷静に、淡々と継母の毎日を描く。継母の一挙一動をこの上なく鋭く、そして偏執的なまでにこと細かに描写しているので、感情が徹底的に排されたこの文体からも、彼女自身が形容しがたいとてつもない憎悪を継母に抱いているということが自然と伝わってくる。

登場人物は、語り手である3歳児、その父親、そして父親が再婚した継母。継母は人を積極的に傷つける種類の人間ではない。無意識のうちに、人を傷つけているような人間だ。語り手からみれば、彼女はどこまでも鈍感である。なんとなく、という理由で結婚をし、インテリアにはまり、ものを食べ、排泄し、くらしている。語り手は無意識のうちに人のこころを踏みにじる鈍感さに強い怒りを覚え、彼女に「制裁」を下すのだ。

冥土めぐりに登場する奈津子の夫も、どこまでも鈍感な人間である。ただ、その鈍感さは、「爪と目」の継母とは違い、奈津子の救いとなっている。奈津子の母と弟はひとから平気で搾取できるような人間。金銭欲と消費欲に支配され、自分は一流の人間だと思って疑わない奈津子の母。同じく自分は特別な人間だと考えハーバード大学に進学さえすれば自分の本来の価値が行かせると夢想してやまない弟。奈津子はふたりの世界に強烈なまでの嫌悪感を抱きながらも、反抗する気力も失い、縛られたままいままでいきてきたのである。

若くして脳症を発病し、「アダルトビデオを持つことで自分が男だと思っているような」奈津子の夫太一は、彼らの悪意には全く気がつかない。彼は思考しない。彼は感じない。人間関係など感知しないのだ。だから彼の目には悪意など映らない。本来の無垢さとその障害で、社会や人間関係との完璧なまでの隔絶を獲得した太一は、奈津子の母と弟の呪縛からするすると逃れることができる。聖愚とさえいえる太一とついていくことで、奈津子はついに二人の呪縛からのがれることができるのある。

 

爪と目の継母と太一とは、周囲に対してあまりにも鈍感であるという点で共通しているでも、継母の鈍感さは暴力であり、太一の鈍感さは不条理な世界を突破する救いである。

この継母と太一の違いを決定づけるものはなんなんだろうと考えながら期末試験の勉強をしています。