女は女である

雑記帳

うまく生きていけるようになることは、感じられなくなるということ

 私は今、ふつうに「女子大生」をして暮らしている。

 きっと大学の友人や出会う大人からは"意識の高い"大学生だって思われているけれど、ふつうに学校へ行き、同年代の男の子と恋をし、サークルのことでときおり悩み、着る服に悩み、バイトに疲れて家に帰るような、ふつうの女子大生なの。

 でも、引きこもりだったときのこと。たまに思い出すのよ。

 

 学校に行っているときは教室のすべてから疎外されていると感じたし、学校にいくのをやめてしまってからは、社会の標準から疎外されていると感じた。学校に通っている間は、うまく頭を使って生きていたから、いじめられることはなかったけれど、まわりの目や動向をつねに気にして、自分の価値観を否定するような振る舞いをすることはうんとエネルギーを消費してしまうものだった。不登校になってからは、外の価値観からすれば私はただの「不登校児」で、私のステータスは人々からあっというまに「底辺」というカテゴリーに入れられてしまうものだった。

 わたしのうんと高いプライドはそれを許さなかったから、めいいっぱい古典を読んで、映画を見て、いっぱい英語とフランス語を勉強して、学校へ行かない間は、自分なりに自分の思考を鍛錬してやる、と思っていたわけ。

 でも、やはり、不登校をするということは難しいことだった。ひとりでいると、わたししか話し相手がいないわけだから、当然自意識は肥大してくる。自分の存在価値とか、ステータスとか、自分がなにをもっているか、とか、そういうことばかり考えてしまう。自分へ向かうベクトルから気をそらすためにも、本や映画は役に立っていたけれど。

 すごくすごくつらかったけど、あのころは、表皮がはげてじゅくじゅくとした肉をさらしていたぶん、もっともっと感じやすかった、と思う。思い切って外に出てみても、街の人々の生む雑談とか、足音とか、クラクションの音とかが自分に迫ってくるように感じたし、視線や、ネオンライトが、自分を突き刺すように感じた。それはつらいものではあったんだけど、うつくしいものにも心を動かすことができるといういい点もあったんだ。わたしの部屋から見えるステンドグラスの光のゆらめきや、差してくる陽のあたたかさ、空の色、雲の形、すべてを鮮明に覚えていた。ドストエフスキイの「白痴」の一節に感動したり、映画「フィアレス」の登場人物の悲痛な表情に胸の痛みを感じたり。

 あまりにも敏感すぎたら、きっとうまく生きていくことはできないんだけど、いま表皮どころかかさぶたでぶあつくなった私の肌は、どんどんいろんなことへの感性を失ってしまったような気がするのだ。うまく生きていけるようになるということは、感じられなくなるということに一種同義なのかもしれない。