女は女である

雑記帳

こちらあみ子(今村夏子)

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三島由紀夫賞受賞作。高校生のときにタイトルをどこかで耳にして、なんとなく気になるなあと思いながら、なんだかんだ読み損ねてしまっていた本。ふたごが古本屋で手に入れていたので、読ませてもらった。

読み終えたとき、なんて恐ろしいものがたりなのだろう、と私は思った。

あみ子は小学生。彼女の小さな世界には、書道教室を開いている継母と、世話をしてくれる兄と、口数は少ないけど優しい父、そして大好きな同級生の男の子しか存在しない。彼女は他人の気持ちが読めないし、彼女にとって関心のあること以外を認知することができないのだ。具体的には描写されていないけれど、彼女はおそらく知的障害を抱えている。

他者との本質的な関わりから隔絶された世界に彼女は生きている。

あみ子は「楽しい」、「明るい」ものたちに囲まれ、いつもとても幸せそうだ。作者の筆致もわざと子ども向けの小説みたいにシンプルな、穏やかなものになっている。文章で登場することばも、かわいらしく、やさしいものばかり。すこし知恵おくれで、まるで幼稚園児のような彼女に近い視点から世界を描いているから。

でも彼女が幸せなのは、彼女自身が悪意や悲しみを少しも感知できないからであり、本当は彼女の人生は悲劇で満ちている。周囲からの蔑視、母の流産、彼女が原因で鬱病になってしまった母、父親のネグレクト、その状況に耐えきれずぐれてしまった兄。家庭崩壊を引き起こす要素が十分すぎるほどに揃ってしまった彼女の家族は、最後には容赦なく崩壊し、一家は離散してしまう。家族が崩れてしまったという事実にも気がつけない彼女の世界は、変わらずそのままつづいていく。

途中で登場する少年、あみ子の興味の対象外であるから少しも彼女は覚えることができないけれど、彼のあみ子の接し方が一番適切なものだったのだろう。軽やかに対応をし、排除することもなく、彼女をおもしろい子として受け止める彼。彼の態度に読者としてはすこしの希望を見いだしたけれど、彼女は破滅を止める可能性をもつ彼には少しも関心を抱くことがなく、「ふつうの」感覚をもった男の子に惹かれ、そしてこてんぱんに否定されるのだ。

調和が保たれたコミュニティの中に投入された異質な存在、これを受け止め、調和を保つこと、それは限りなく難しいことなのではないか。わたしたちは自分の生活のスピードを、快適さを、とどこおらせ、混乱させるものを嫌うものだから。