女は女である

雑記帳

ソ連崩壊から23年、理想国について語る可能性について

 

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(Ryan Mcginley)

理想国の構想は古今東西で散見される。中国の桃源郷や、インドのシャングリラなど、人々は理想の楽園の存在を夢想し憧憬を抱いてきた。理想国の概念は多くの宗教に頻繁に登場するもので、たとえばキリスト教においてはエデンの園と最終目的地としての天国という二つの理想国の形を見ることができる。多くの理想国は、その語り手と離れた物理的・時間的距離をおいたどこかに存在するものと想定され、時には現世ではなく死後の世界に構想されることもあった。それまでは空想上の存在として描かれてきたことと比較すると、プラトンの『国家』やトマス・モアの『ユートピア』で描かれた理想国は、それまでの空想上の存在にすぎない夢想的な「地上楽園」「千年王国」などの到来や発見を待つのみの「理想国」像と一線を画している。ただの夢物語としてではなく、現世にその理想国を主体的に実現可能にするための具体的な条件を提示した文学の一系統は「ユートピア文学」というジャンルに包含することができるだろう。

21世紀において理想国について語ることは可能なのであろうか。まず、過去に構想された理想国と、その理想国像を生んだその時代の社会的コンテキストを照らし合わせ、その構想が社会においてどのような役割を果たしてきたのかを明らかにする。そして21世紀の社会について考察し、理想国について語ることの可能性について考えたい。

トマス・モアが「ユートピア」を著したのは1516年のことである。15世紀から16世紀は宗教改革ルネサンスがイギリスで盛んになった時代であり、中世社会が解体されつつある変遷の時代でもあった。ガマによる東インド航路の発見などによって経済市場が急激に拡大し、輸出用の毛織物の生産のため牧羊目的の第一次囲い込みが行われた。農民は土地を失い、貧困層の失業者が増加する一方で、都市の富裕層はさらに裕福になっていく。その様子に疑問を抱いたモアが描く理想国は、平等で戦争の無い平和な共産主義国家である。人々は財産を所有せず、男女ともに質素な服を身に纏い、金銀などは軽蔑の対象である。一日6時間以上働く必要はない。理想国ユートピアは現実のイギリスと正反対の国家像の可能性を提示している。彼の描いた理想国が、これまで歴史上に登場した楽園と同義だった想像上の理想郷とは異なっているのは、制度や法律の改正によって理想国は現世に達成可能なものであるとしたところである。これは宗教改革などによって宗教の権威が弱まるにつれて、理想は来世ではなく現世で実現したいというようになる。モアは、この書物において語り手を彼自身とせず、語り手のヒスロデイにも、彼自身を含めた他の登場人物にも優位性を与えていない。彼が社会批判のためにこれを書いたのは確かであるが、この書は社会風刺をする目的よりも提示された物議を醸す問題に関して広く議論をおこし、現状を疑問視することを促すことを目的としたのではないだろうかと考えられる。

1612年にはベーコンによって「ニューアトランティス」が著された。描かれた「ベンサレム王国」に登場する、研究所というべき「サロモンの家」の着想からは、科学が人間を幸福にするという期待が見える。

同じく16世紀には大航海時代がヨーロッパに訪れ、地球上のどこかの新大陸に理想国が存在するという考え方が生まれた。彼らは新しく到達した大陸に未知の文明を「発見」し、黄金や宝石が溢れる夢の国を想像した。食人や奔放な性生活をする、西洋の理性が通じない原住民たちの営みにディストピア的な要素を見いだしながらも、文明化した自分自身を「堕落」したと見なし、自然に生きる新世界の住民たちの国にユートピア的な要素も見いだす者もあった。メルヴィルは彼の実際の体験をもとにして著した「タイピー」で、文明化されていない民族タイピー族の国を理想的な存在として描いている。「発見」された部族たちの共同体は、ヨーロッパ人にとっては目指すべき目標ではなかったが、彼らの自然に調和した生き方こそが本来の人間のとるべき人生だとし、文明化された西洋社会を見直すきっかけにもなった。

19世紀前半には、イギリスの産業革命をきっかけとして、実践的な科学と社会工学が発達した。資本主義社会が発展するにつれて、資本家と労働者の貧富の差が広がり、劣悪な労働環境や環境汚染に寄る都市の住環境の悪化などの弊害が顕在化するようになった。社会批判として当時描かれたユートピアの多くは、当時の資本主義とは正反対の、自然と調和した共産主義社会だった。ベラミーは著書の「かえりみれば」で、人々が感性に重きを置き、個人主義が根絶された世界を描き、資本主義社会と機械文明への批判を行った。ウィリアム・モリスの「ユートピアだより」では、主人公が私有財産貨幣経済、科学技術が消滅した23世紀のロンドンに迷い込む。営利をひたすら追求した機械での大量生産ではなく、人々が創作活動に喜びを感じながらつくった美しい手工芸品が街にあふれ、それぞれが仕事を楽しんでいる。モリスもベラミーも、当時の利益至上主義の社会を疑問視し、人間的な感性を大切にすることを訴えかけている。

産業革命はさらに進み、国際的な規模に商業システムが拡大していったものの、労働者をとりまく状況は改善されてなかった。そこで登場した共同体的社会主義者がロバート・オーウェン、サン・シモン、シャルル・フーリエの三人である。この三人はそれぞれ異なる理想的な共同体を構想した。例えば、過剰な利潤追求による労働者の酷使をおそれたロバート・オーウェンは、彼自身が運営者に名を連ねていたニューラナーク村を共産主義的共同体とし、理想的な共同体の姿をつくりあげた。ニューラナーク村では消費される以上の生産はせず、児童労働は禁止し、富の個人への集中は否定された。彼の構想とそれまでの理想国像が異なるのは、個人は所属する共同体を統治するすべを学び、共同体の運営に参加し、他の共同体と利害を調整するという存在、シティズンシップをもつ存在として位置づけられた点である。その後も、理想的共同体をつくるという考えは人々に採用されてきた。ピルグリムファーザーズなどのピューリタンがアメリカに築いた共同体や、第二次世界大戦後のヒッピーによる共同体・宗教団体による共同体、自然に調和した生活を追求しているアメリカの共同体・アーミッシュなどもその一つである。

これまでさまざまな構想されてきた理想国には、おおよそ共通している点がいくつもあるように思われる。

一点目は、閉鎖的であることである。トマス・モアの「ユートピア」においてヒスロデイが語る理想国も、創立者ユートパス1世があえて切断した孤島であり、「ニューアトランティス」に登場するベンセレムも離れ小島として描かれている。他国と物理的な隔たりがあるため、鎖国しやすく、他の文明の影響を断絶することが容易だったのである。

二点目は、私有財産が否定されていることである。プラトンの『国家』においては、一般の国民も支配者も「彼らのうちの誰も、万やむをえないものをのぞいて、私有財産というものをいっさい所有してはならない」とされた。財産だけではなく、妻子の共有という構想さえされている。モアの『ユートピア』においても、財産の共有とともに、人々は等しく6時間労働し、同じ時間に食事を共同で食べ、生産物を共同体の生成員で分け合うという決まりも描かれている。そうすることによって必要以上の過剰な利潤追求が防止できると考えたのだ。

三点目は善の構想が共約されている点である。理想国の善の構想は、フーコーの提唱する規律権力のようにその国民のひとりひとりに浸透し、その国民のそれぞれがそれに対応した行動をしている。

他にも、完成されているが故に歴史が止まり、社会が既に固定されているという点も共通している。しかし、これまで描かれてきたこれらの要素を含む理想国像が、地上に実現することはほとんど不可能であるということをソビエト連邦の失敗が明らかにしてしまった。二十世紀になって出現したファシズム共産主義は、これまで語られてきたユートピア思想が、全体主義のもととなることが歴然としたからである。それは二点目と三点目に見られるように、国家は個人を同質なものととらえそれを管理し、個人の自由を犠牲に秩序を保つ考えが成立不可能だったためである。

また、これまで構想された理想国の実現が現代において不可能なのは、その構想自体だけが要因ではなく、外的要因にもよる。グローバル化、情報化社会の拡大により先述一点目はもはや成立しない。これは「幸福の国」と形容されてきた小国・ブータンの例にも見ることができるのだ。ヒマラヤ山脈に位置するブータン王国は、多くの先進国がGNPの改善に重きを置いた経済政策を採用しているのに対し、GNH(国民総幸福量)を国の指標としている。ブータン王立研究所所長である、カルマ・ウラはつぎのようにGNHについて説明をしている。「経済成長率が高い国や医療が高度な国、消費や所得が多い国の人々は本当に幸せだろうか。先進国でうつ病に悩む人が多いのはなぜか。地球環境を破壊しながら成長を遂げて、豊かな社会は訪れるのか。他者とのつながり、自由な時間、自然とのふれあいは人間が安心して暮らす中で欠かせない要素だ。金融危機の中、関心が一段と高まり、GNHの考えに基づく政策が欧米では浸透しつつある。GDPの巨大な幻想に気づく時が来ているのではないか。」

ブータン王国はかつて構想された理想国といくつかの点で類似している。しかしこの国でも、14年前にインターネットとテレビが解禁され、国外からの情報が流れ込むようになり、国民に消費文化が急速に浸透した。多くの輸入をするようになった国家は、負債にも苦しめられている。

どの国もグローバル化の時代の中で資本主義の影響を逃れることは出来ず、逃れようとするのならば鎖国政策をとらなければならない。しかし鎖国政策をとる国家の多く、たとえば北朝鮮などは、個人の自由を制限することでしか成り立たず、ディストピア化している。

これまでの理想国の構想が実現不可能だと判明した現代、理想国について語ることは可能なのだろうか。私は依然として可能であり、また有益であると考える。

理想国の構想はこれまで現実逃避のためではなく現実を打破する思考であり、社会を見直し新たな可能性を提示する役割を果たしてきた。トマス・モアも「ユートピア」の最後で、「私としては、例えユートピア共和国にあるものであっても、これをわれわれの国に移すとなると、ただ望むべくして期待できないものがたくさんあることを、ここにはっきりと告白しておかなければならない」と語っているように、必ずしも実現を目的としたものではなかった。これまでの各時代の理想国像を考察しても、その時代の矛盾への疑問を投げかける社会の鏡像としての役割を果たしていたように思われる。90年代初頭に崩壊したソ連も、ある時期のアメリカでは、資本主義社会への疑問をなげかけるために対照させる存在であり、修正資本主義などを生み出すことにも繋がった。「ユートピアの歴史」を著したグレゴリー・グレイズが、「ユートピアへの志向とは、可能と不可能の狭間にある空間を探求することなのだ」「ユートピア北極星であり、道標であり、人のあり方を改善していく永遠の探索のために持たされた地図の目印なのだ」と述べているように、理想を掲げることによって現状打破を画策するために、達成目的とではなく対照することを目的として理想国を構想することは有意義なものである。9.11によるアメリカのレジームの限界が浮き彫りになったこと、3.11によりこれまで有効なエネルギー源と考えられていた原子力の危険性の見直しなど、これまでの現状の破綻が浮き彫りとなった今、理想国について改めて構想をしなおすことは大きな意味をもつはずである。

参考文献

川端香男里(1993)『ユートピアの幻想』講談社講談社学術新書)

クレイズ, グレゴリー(1993)『ユートピアの歴史』(巽孝之, 小畑拓也訳)東洋書林

モア, トマス(1957)『ユートピア』(平井正穂訳) 岩波書店岩波文庫

ベーコン,フランシス(2003)『ニューアトランティス』(川西進訳)岩波書店岩波文庫

モリス, ウィリアム(2013)『ユートピアだより』(川端康雄訳)岩波書店岩波文庫

プラトン(1979)『国家(上)』『国家(下)』(藤沢令夫訳)岩波書店岩波文庫

ベラミー(1953)『かえりみれば』(山本政喜訳)岩波書店岩波文庫