女は女である

雑記帳

孤独を飼いならす

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(Rinko Kawauchi)

さみしさ、はいつもいつもわたしにつきまとう感情。それから逃げることをこころみたり、ほかのことで頭をいっぱいにしてその存在をわすれようとしたり、本当に、小学生のころから、長いあいだもがいていたけれど、これを私から引きはがすことは不可能なことなのだ、ということが17歳になってやっと分かった。わたしは、この感情と、一緒に生きていくしかないのだ。そして、わたしはこれを飼いならすことができないまま、無理矢理に檻に閉じ込めてしまっている。もちろん、これがわたしのなかに存在するということはときに辛いことではあるけれど、人生の美しさを感じるためにもさみしさはとても大切なエッセンスであるはず。もしもこれをもうすこしだけ、うまく飼いならすことさえできるのならば、もっともっとわたしはうまく生きていくことができるのだと思うのだけれど・・・。

 

高村光太郎の詩につぎのようなものがあります。

もう萬人の通る通路から数歩自分の路に踏み込みました
もう共に手を取る友達はありません/
ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです
私は此の孤独を悲しまなくなりました
此は自然であり、又必然であるのですから
そして此の孤独に満足さへしようとするのです

高村光太郎「人類の泉」)


この詩では友人の存在がありながらも、彼らと世界を共有し理解し合うのは一部分であり、やはり孤独であると感じている作者の心情が綴られています。

孤独は昔から文学や哲学のテーマとなってきました。それは、「人はだれしも、自分自身の生涯を一人で生き、自分自身の死を一人で死ぬもの」(ヤコブセン)で、「生き物は全て孤独である。そして人間は自らが孤独であることを最も良く知る者である。」(E.アラン)だからでしょう。孤独を感じたことのない人間はありません。孤独は人間に与えられた正常な感情の一つだと考えられます。孤独は人の精神状態に大きな影響を及ぼすものであり、人生の豊かさを左右する要素のひとつであるといえます。友人から受ける相談も、わたしが抱く悩みも、すべて根源には「孤独感」が横たわっているように感じます。

国語辞典によると、孤独とは「思うことを語ったり、心を通い合わせたりする人が一人もなく寂しいこと。また、そのさま」を指します。
論ずる前に、「孤独」の意味合いを定義づけておきたいと思います。
ひとりで生きている人がいても、さみしさ、孤独感を抱えて生きていなければ、その人は孤独ではありません。
しかし、先述の高村光太郎の詩のように友達に取り囲まれていても、さみしさ、孤独感を抱えていたら、その人は孤独だといえるでしょう。

ここでは孤独感としての意味合いの孤独について取り扱います。

孤独感とはなにから発現するものなのでしょうか。「孤独の科学」で柴田正之は、孤独な状態において、人という動物が単独では生存に不利であることが由来である、と論じています。初期の人類の中には、「独りを好む性質」をもつ人もいたかもしれないけれど、そういう性質の人は集団で生きた人々に比べて動物の餌食になったり飢餓におちいる可能性は高かったと考えられます。その結果「集団生活指向」の人々の子孫が残ったという主張です。

そもそも、人は無防備な、生きていくにはあまりにも未熟な状態で生まれます。鹿の赤ん坊は生まれて二時間で立つことができるのに、人間の赤ん坊は一年もかかるのです。人は生まれながら、誰かの助けなしには生きていくことが物理的に不可能である運命を背負っているといえます。そのような社会的な動物においては「孤独」と「生死」が直結しているのですから、孤独であることに強い恐怖感を覚えるのは自然な反応といえるでしょう。孤独感は生物学的な自己防衛の副産物とも言えます。

また、孤独それ自体が極めてわたくし的であることも挙げられるでしょう。自分が存在しているという事実はきわめて私的なものです。一生かかっても、何をしたとしても共有できないその自我の独自性が孤独感をつくる源になっていると考えられます。

「愛するということ」「自由からの逃走」で、人間が最も恐れていることとは孤独であり、それゆえ人間の行動原理は孤独の解消である、とエーリッヒ・フロムは主張しています。「私は、個人的にも社会的にも、人間の最大の恐怖は仲間からの完全な孤立、完全な追放の恐怖であると信じている。死の恐怖すら、これよりは耐えやすい。社会は追放のおどしをかけることによって、抑圧の必要を実行に移すのである。もしあなたがある種の経験の存在を否定しなければ<=もしあなたが集団から孤立してしまような不都合な感情を抑圧することができなければ>、あなたには所属すべき場所もなく、存在すべき場所もなく、狂気の危険があるばかりである。」

境界性人格障害、回避性パーソナリティ障害といったメンタルヘルスの問題は、孤独感を根底としています。孤独は人にどのような影響を及ぼすのでしょうか。

「愛するということ」でフロムは、人間の孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいというもっとも強い欲求を満たすための人間による行動の例をいくつか挙げています。一つは興奮による合一体験です。これは強烈な体験を必要としで、精神と肉体の双方に起きます。例としては、祭りの乱痴気騒ぎや男女の性的関係などが挙げられるでしょう。そのような体験は概して断続的で、一時的に気をそらすことができるものの、根本的な孤独感の解決には繋がりません。また、宗教や啓蒙主義社会主義における平等の主張も孤独感の解消の手段として挙げられています。同じ人類である、という偽りの一体感から孤独感を意識しないという手法です。格差を生み出す「自由」を理念としている筈の資本主義の思想の中にもこの「平等」の質に近いものが横たわっています。資本主義社会に置いては「一体」ではなく、個人を同一化し、没個性的な平等を理想としています。つまり人間を標準化し同じ型であることを潜在的に強いることです。これは後に引用するリースマン著「孤独な群衆」の中でも述べられています。また、他の手段としては創造的活動が挙げられています。芸術家やクリエーターは、材料と一体化することによって世界と一体化するような感覚をえることができます。しかしこれは人間同士の一体感ではないので、これも根本的な解決にはつながらないとフロムは主張しています。

近年の社会形態も人間の孤独感を助長する一要因と言えるでしょう。
リースマン著「孤独な群集」では、人間の指向類型を社会発達の段階別に三つにわけています。産業化されていない社会において、血縁社会を基礎とし、伝統として定型化した生活形式の中での生活維持には適応だけが必要となっています。適応のみを求める性格的類型は「伝統志向型」とよばれます。つぎに、ルネッサンス産業革命のような社会的な変動を経て、個人の中に内的な方向付けという機動力が増えます。新しい状況下では、神や伝統に頼るのではなく、新しい選択は個人で行わなければならないからです。自分自身の人生を自分で編集し、自己批判し、統御する類型を「内部指向型」といいます。近代になり、資本主義社会の発展を背景として、社会でどういった流行があるか、という価値判断に従って判断しようとする自己愛的・大衆迎合的な性格構造が発達してきました。中間大衆層の典型的な社会的性格とされ、他人の評価を気にして同調し、共同幻想を抱こうと努力したとしても、自らの価値判断ではないのですから、本当の自分というものによる人間関係は構築され難くなります。他人と情愛的な相互理解や協力関係を深めることは難しくなり、各個人はバラバラに分離して孤独な状況に置かれやすくなります。社会全体で共有される価値・物語は希薄化してしまい、変動的な消費社会に適応すること自体が自己目的化し他者とのつながりへの欲求と自己愛のはざまでジレンマに襲われやすくなります。

現代の社会的指向はこの三番目の「他人志向型」です。表面的に、仲間集団から望まれる選択肢をとりつづけ、その集団の生き方や価値判断とことなる指向をしめして疎外されることをおそれます。集団の動向に目を向けるあまり、他人個人そのものに興味関心を抱くことも困難になって来ます。また、消費文明の枠組みの中で他人からの承認欲求は表層的で商品・レジャー・娯楽のような物質的なものを介するようになり、共同体的な「一体感を得たい」という感情は恋愛や家族関係ではえることが難しくなります。

どうすれば、孤独感をうまく解消しながら生活をしていくことができるのでしょうか。冒頭で引用した高村光太郎の詩はつぎのようにつづきます。


「けれども
私にあなたが無いとしたら-
ああ それは想像も出来ません
想像するのも愚かです
私にはあなたがある
あなたがある
そしてあなたの内には大きな愛の世界があります
私は人から離れて孤独になりながら
あなたを通じて再び人類の生きた気息に接します
ヒユウマニテイの中に活躍します
すべてから脱却して
ただあなたに向ふのです
深いとほい人類の泉に肌をひたすのです」

 高村光太郎は、具体的な存在である妻智恵子への愛に自我をとかすことで、一般的な人類全体にとけ込み、外界と一体化し、孤独感を克服する過程をかきました。フロムの「愛するということ」では、孤独を解消するただ一つの方法として愛をあげています。ただ未成熟な共棲的結合、つまり独立していない個人と個人のあいだで生まれる関係は、愛ではなく服従関係、つまりマゾヒズムやサディズムに陥る危険があるという指摘がなされています。たとえば、妊娠している母と胎児とが相互関係ではなく母が胎児の生命線を握っているという一方的な関係であるようなものは依存関係です。実存の問題に対する、成熟した答えが成熟した愛なのです。自分の全体性と個性を保ったままの結合を可能にする人間への愛こそが根本的な解決法だというのです。その愛を行うためには、搾取する可能性をはらむ利潤関係を避け、自己を確立し、配慮・知・責任を果たすことが必要になります。


 他の健全なかたちで世界と一体化する方法もあるでしょう。脳梗塞に陥った脳科学者による「Stroke of Insight」という本によると、左脳機能を失った彼女にはつぎのようなことが起きたといいます。時間、自我を区別する左脳機能が障害されることによって、彼女は全体的、直感的な右脳優位の世界を感じるようになりました。それは時間も彼我の区別もない宇宙との一体感と幸福感に満ちた沈黙の世界であったそうです。この体験を筆者はほとんど仏教の涅槃に似た体験として記しています。自我を他と区別する思考や言語的な思考を停止し、直感的な感性を働かせる体験を大切にすることは、孤独の寂しさから気をそらすという消極的な解決方法では決してなく、積極的な解決方法なのではないかと考えます。存在から抜け出すことが、実存的な問題である孤独から抜け出すことにつながるのです。

 わたしにとって、フロムがいうような愛というものをつかまえるのはまだまだ難しいことです。そして、自らに孤独を感じ、考える過程で、すべてを疑い始めると、ものごとに正しい基準など存在しないこと、わたしが信じていることは不確かであること、を感じてしまいます。わたしがいくら追求したところで、わたしというものはどんどん遠ざかっていきます。ベクトルをわたし自身にむけ、世界と相対化し、境界線を引くことが孤独をつくりだすのではないでしょうか。自分のことばかり考えること、これが孤独感の原因なのではないでしょうか。世界と一体化する体験たとえば言葉を失うほどの美しい景色に見とれたり、美しい音楽に恍惚となるときの無心の状態、無我夢中にスポーツや勉強に熱中する経験、無私になるくらいにだれかを熱烈に愛すること、が孤独感の根本的な解決につながるのではないのだろうかと思います。自分へ向かうベクトルではなく自分から向かうベクトルに着目することで、孤独感を克服すること、これは私にとっては一生をかけて実践することなることでしょう。