女は女である

雑記帳

思い出はみえない

引き出しの奥には、赤と、青と、橙色と、いろんな色のビー玉たちが潜んでいる。それぞれのビー玉の中には、違った世界が広がっている。重みのあるそれを一つとりあげて、じっとのぞいてみる。最初はぼんやりとしかみえないけれど、だんだん目が慣れてくるので、もうすこし辛抱する。しだいに、東京のネオンライト、横断歩道のシマシマ、信号の赤青黄色、そして道を行き交う人々が見えてくるようになる。しばらくすると、道路にたたずむ一人の少女の後ろ姿が浮かび上がってくる。見覚えのある深い紺の制服、肩とどくくらいの黒い髪から、それが中学生のころの私であることに気がつく。

ビー玉を灯りに透かせば、明るくなって昼になり、暗いところで覗き込めば夜になる。 わたしはひたすらビー玉をあつめて、それを一日中眺めて暮らしていた。ほかにはなんにもしないで。自分の生活なんか、どうでもよくなってしまうくらいにそれらの世界が魅力的だったものだから。

という夢を昔見た。

 

子供のとき、ビー玉あつめに凝ったことがあった。からっとした青色のビー玉、ガーネットとレモンイエローの、まるでオレンジキャンディーみたいなビー玉、赤とイエローの金魚柄のビー玉、いろんなお気に入りのビー玉を集めていた。

ビー玉はいまでも好きで、今でもジャムの瓶につめて飾ってクローゼットの上に飾っている。ときどき意味もなく取り出しては、蛍光灯に透かしてみたり、ノートの上にならべて、そのカラフルな影をながめたり、影を混ぜ合わせて新しい色をつくってみたりもする。

映画「害虫」の、主人公のサチ子がビー玉の詰まった瓶を倒すシーンを思い出す。彼女の細い指で瓶を倒してしまうと、ビー玉は大きな音を立てて一気に流れ落ちて行く。

昔の思い出を集めて眺めてみる。
思い出のひとつひとつには色がついていて、カメラのフィルターをかけたようにぼんやりとしている。まるでビー玉をのぞいているみたいだ。私の思い出のはずなのに、そのなかにいる私を私は見下ろしている。だからもうこれは頭の中でつくられた思い出だっていうことだ。

思い出すとき、心が明るければそれははっきりときれいな思い出に見えるし、心がなんとなく暗い日は陰鬱な暗い思い出のようにうつる。喫茶店で読んだフロム、富山県の雪、寺院にたむろする猿。おでこのにきび、日焼けした黒い腕、しみ一つない曲線の美しい背中、星座をつくり出せそうな腿のほくろ。冬の公園の遊具、眠れずひとりで歩いた夜の新宿のネオンライト。赤くなった一重まぶたの目、もうそろそろジャム瓶はいっぱいになってしまうので、もう一つ新しく調達しなくちゃいけないだろう。思い出は、それ自体で完結している。ひとつひとつが短編小説みたいに、一本の映画のように独立している。心が無意識に、ひとつのお話としてしあげようとしているからだ。だからどんどん思い出は、思い出せば思い出すほど、しぜんと脚色されて、ストーリーとして美化されて、かたちがととのって、どんどん美しくなる。本当のすがたからは離れていってしまう。