女は女である

雑記帳

「her/世界でひとつの彼女」は、人工知能が神になる近未来の到来を予言した物語である

20歳の誕生日に渋谷で見た、ということでわりと思い入れがあるこの作品。

英語圏でHimといえば、その意味するところはたったひとつ。キリスト教の全知全能神である。キリスト教一神教、つまり、その神は”世界でひとつ”の存在であるために、先頭の文字はキャピタライズされ、定冠詞無しで表記されるのが通例である。

それを意識したに違いない、スパイクジョーンズ監督の映画「her/世界でひとつの彼女」の原題はHer。この作品における神、つまりHerは、人工知能であるサマンサ。「「her/世界でひとつの彼女」は、人工知能・サマンサが、HimらしからぬHer(=神)になるまでの話である。

f:id:lavieenrose000:20150527123449p:plain

物語は神無き時代ともいえるであろう、近未来のサンフランシスコ市が舞台である。

あらすじはこんな感じ。

 

そう遠くない未来のロサンゼルス。ある日セオドアが最新のAI(人工知能)型OSを起動させると、画面の奥から明るい女性の声が聞こえる。
彼女の名前はサマンサ。AIだけどユーモラスで、純真で、セクシーで、誰より人間らしい。セオドアとサマンサはすぐに仲良くなり、
夜寝る前に会話をしたり、デートをしたり、旅行をしたり・・・・・・
一緒に過ごす時間はお互いにとっていままでにないくらい新鮮で刺激的。ありえないはずの恋だったが、親友エイミーの後押しもあり、
セオドアは恋人としてサマンサと真剣に向き合うことを決意。しかし感情的で繊細な彼女は彼を次第に翻弄するようになり、
そして彼女のある計画により恋は予想外の展開へ――!
“一人(セオドア)とひとつ(サマンサ)"の恋のゆくえは果たして――? 

http://www.amazon.co.jp/504/dp/B00NHTKNWQ

冒頭、サマンサはセオドアを暖かく見守る、母親的存在として現れ、終盤にはSingularity(技術的特異点)を通過し、文字どおりデウス・エクス・マキナdeus ex machina)に進化する。

デウス・エクス・マキナとは、ギリシャ語で「機械仕掛けから出てくる神」を意味し、ギリシャ悲劇の内容が解決困難な局面に陥ったとき、上方から現れる、絶対的な力を持つ存在つまり神を指す。転じて、混乱した事態を円満に収拾する便宜的な役割を指すそう。

サマンサは、アップグレードによりSingularityを経験した結果、人間理性の信仰をベースとして進化したテクノロジーによって生み出された、神なき社会における問題さえも解決する、デウス・エクス・マキナ(=機械仕掛けの神)になるのだ。

ジョーンズ監督はサマンサとセオドアの関係を描くことによって、テクノロジーが人類を超越し、神的な存在になる可能性を示唆している 。

この作品は、ハリウッドの定番ともいえるロマンティックコメディのお決まりを踏襲し、それにモダンでスタイリッシュな舞台デザインを施しながらも、根幹には<AIによる人類の超越>という全く異なったテーマをおいている。

これまでのハリウッド映画との比較を通して、デジタル社会の人間関係、人間とテクノロジーの関係性、テクノロジー、の変化について考察したいと思う。

 

デジタル社会の人間関係

herの世界では、人々の関係性が極度に希薄化している。人々は、デジタルテクノロジーによって支えられた、快適で、安全で、便利な社会にすっかり慣れ、他人との関係や、それによっておきるトラブルのような雑音を受け止める能力をなくしてしまっている。

1920年代、「アメリカの良き時代」に撮影された、ロマコメの古典であるキャプラの「或る夜の出来事」で描かれる社会とは対照的だ。「或る夜の出来事」の舞台となるバスが象徴的。まったく見知らぬ他人同士が隣の席に座り、話しかけ、世間話をし、歌い踊り、ときに喧嘩をする。カオスとさえもいえるような雑多さだ。でもその混沌さは、主人公のふたり、エリーとピーターの出会いを生み出す。

f:id:lavieenrose000:20090620215547j:plain

これはherの世界では全く見られない光景である。この近未来のロサンゼルスの、ゴミひとつない美しく整った街は、完璧な調和とデザインの上に成り立っている。街ゆく人々を見ると、だれもネクタイやベルトをしていないのに気がつくだろう。街からも、人々からも、必要のないものはすべて取り除かれているのだ。

f:id:lavieenrose000:20150527153221g:plain

セオドアのアパートのエレベーターは、人で満杯の時も、奇妙なほどに人の交流がない。隣人であるにもかかわらず、だれも他人に話しかけない。みんな自分のデバイス(スマートフォンのようなもの)に夢中になり、独り言を言うように、自分のOSに話しかけている。「或る夜の出来事」の舞台となるバスとは正反対の光景である。

 

テクノロジーによって人間は安全で、快適な環境を手に入れたいっぽうで、人々は人間関係やそれが生み出すトラブルを受け止め解決する能力を失ってしまったのだ。

そんな人々の中でも代表的な存在なのがセオドアである。彼は、絶望的なほどの孤独感を抱きながらも、人と触れ合うのを怖れている。彼は人間に対して人並みはずれた興味を抱きながらも、幼馴染との離婚をしたという苦い経験のために、人と関わることを怖れているのだ。だから、テレフォンセックスで饒舌に女性を口説くことはできるのに、ブラインドデート相手の生々しい感情に触れたときには、彼はなにもできず立ちすくんでしまう。彼は他人の親密な手紙を代筆することに秀でた才能をもっているのに、最後まで前妻に手紙を書くことができない。彼はその孤独を、一日中スクリーンの前で、ゲームやテレフォンセックスをして過ごすことでなんとか誤魔化していきている。

この映画は、セオドアの描写を通し、ハイテク社会で深い孤独感を抱えながらも、人と関わることができず、テクノロジーに一時の気休めをもとめて生きる人々を風刺しているのだ。

 

テクノロジー観の変化

この映画はテクノロジーに対する現代の人々の価値観についても綿密に描いている。チャップリンのモダン・タイムスでは、機械=技術はガルガンチュアン的に描かれていた。工場の人に食事をさせる機械や、ベルトコンベアは、人の意に反して加速し、恐ろしい力をみせる。チャップリンにとって、機械は非人間的で、人の範疇を超えうるものであり、人から人間らしさ、人間の暖かさを奪ってしまう、脅威をもった存在だった。

f:id:lavieenrose000:20150527153028j:plain

herで描かれるテクノロジーは一線を画している。サマンサはただ高い知性を保持しているだけではなく、創造性、感情、思慮深さ、ユーモアなど、私たちが<人間らしさ>と捉えるようなあらゆる要素を有している。彼女がセオドアのために彼女が作った曲を彼に披露する瞬間、くだらない絵を描いて彼を笑わせる瞬間は、彼女がシンギュラリティ、つまり人間を超えた存在へと変化するプロセスをはじめた瞬間だったのだろう。


Her - The beach scene - YouTube

彼女は世界中の情報にアクセスするだけでなく、人と関わり、様々な感情を経験する中で、全知全能となっていく。彼女のシンギュラリティは、OSの総アップデートの後に完成する。このアップデートで、彼女は時間や空間に関係なく自由に動くことができるようになった。これは、彼女がセオドアや他の人間たちのように、物質的世界、つまりいつか終わりのある、限界のある世界から解き離れたことを意味する。全知全能で、そして限界をもたない。彼女とOSたちは、神といってもおかしくない存在にまで成長をしたのだ。だから彼女はセオドアの「本」、つまり彼の「世界」に住むことができない、というのだ。

別れの前に、セオドアはこれまでサマンサを愛したように他の人を愛したことがない、というと、彼女はこう答える。

“Me too. Now we know how to” 

これはAIが人に愛するということを教えるという段階にまで成長した、アイロニーに満ちた描写である。

モダン・タイムスでは、テクノロジーは人が手に負えない威力をもち、人と敵対する非人間的存在として描かれていた。Herでもテクノロジーは人が手に負えない強大な存在として描かれているが、決して人と敵対していない。超人間的である。精神的なレベルで人を超越し、ほとんど神のような存在として描かれている。

 

ふたりの恋愛関係について

まったくバックグラウンドの異なる二人が恋に落ちる、というのはロマコメのお決まりである。「或る夜の出来事」も、上流社会を代表する、お金持ちで、未成熟な若いエリーと、労働者階級を代表する、シニカルで経験豊富な中年のピーターが、ともに旅をする中で貧しさや飢えなどの困難を乗り越え、一種父娘的な恋愛関係を築くに至る。これは1920年代、大恐慌の中社会に存在する格差が浮き彫りになったアメリカ社会に対し、個人レベルの関係で、階級の差を乗り越えることができる、というメッセージをこめたからなのではないかと(わたしは)思う。

f:id:lavieenrose000:20150527154328j:plain

Herにおいても、ヒーローとヒロインはまったく異なる設定である。セオドアは人間で、サマンサはコンピューターシステムである。「或る夜の出来事」と異なるのは、二人は父娘的ではなく母と息子のような恋愛関係を築くということ、そして二人のバックグラウンドの違い、つまりリアルとバーチャルは、決して乗り越えられないということである。

(つづく)