女は女である

雑記帳

わたしはポテサラを買うことができない

わたしはポテサラを買うことができない。買おうとするたび、心に棲みついた「ポテサラじい」が「ポテサラくらい作ったらどうだ」と自分に囁くからである。だから、これからスーパーでポテサラを買う練習をしたいと思う。

一人暮らしをし、パートナーと同棲を始め、家事を回すようになった今、わたしの母の家事は常々”完璧”だったと思い出す。わたしは大人になるまで冷凍餃子を食べたことがなかったし、食卓にスーパーのお惣菜が並ぶことはほぼなかった。ランチやディナーのスパゲッティやカレーは最低2種類用意されていたし、もちろんスパゲッティは自家製ソース、カレーはスパイスから作ったものだった。寝る前にはいつも丁寧に絵本の読み聞かせをしてくれたし、学校から帰ってきたわたしのたわいもない話にはいつも楽しそうに耳を傾けてくれた。風邪の時は熱心に看病してくれるものだから、わたしは検温の際はいつも高熱が表示されることを願っていた。日本の誰もが認めるような母だ。

わたしの母は女性としては珍しく国立大学で修士号まで取得し、女性の働きやすさや子育てのしやすさで教職を選び、新卒でフランスの日本人学校へ駐在。その頃の女性にしてはかなり先進的な生き様を体現したけれど、おそらく父の仕事の転勤や3人という子どもの数を踏まえて、その時代の女性の例に漏れず、途中でその華々しいキャリアを諦めることになった(母は子どもが大好きな人だったので、それが後悔のない選択だったという母の言葉には曇りがないことが娘としての救いである)。わたしは母の家事の完璧さの背景には、もちろん母の生活それ自体への強い愛着があると思いつつ、有り余ったその優秀さやエネルギー、それともキャリアを中断したことによる背水の陣のようなものがあるように感じている。

そんな母に育てられたわたしはポテサラを買うことができない。母のような女性になりたいと願うからこそ、どんなに仕事で忙しくても素材から料理をしなければいけないとどこかで信じこんでいる。周りの友人が家事と仕事の両立に嘆息すれば、わたしは当然のように家事代行や冷凍食品の活用を提案・奨励するだろう。家事代行はむしろ家事の質を上げる結果に繋がるし、もはや冷凍食品が健康に悪いというのは昔の話であることもよくわかっているからだ。しかしなぜか自分にはそれを許すことができないのである。フルタイムで男性と同じように働くわたしが専業主婦だった母と同水準で家事をすることができないことは頭ではわかっている、ただ母の完璧な家事によって構築された潜在意識が、自分のその省略を許すことができないのである。

わたしのパートナーはワーキングマザーに育てられた。学校から帰宅しても家に人がいないことはよくあったそうだし、冷凍食品やスーパーのお惣菜もよく食卓に並んでいたそうだが、実際彼は誰よりも身長が高いし、しっかりとした心根の持ち主なので、子育ての本質はそこではないということの証左と言える。そんな彼は冷凍食品やスーパーのお惣菜に微塵の問題も感じない質であるが、それにも関わらずわたしはパートナーに冷凍餃子やスーパーのポテサラを出すことができないのである。

われわれ世代の多くは専業主婦に育てられ、その中でもわたしのように母に丁寧に育てられた人も多いだろう。だからこそ女性の家事の省略について、一部の女性は罪悪感、男性は嫌悪感を抱くことが多いのではないかと感じている。頭ではその必要性を理解していても、ポテサラじいのようなものが心のどこかにいるのではないか。母の完璧な家事や丁寧さはわたしの子ども時代を本当に明るく彩っており、その子ども時代のあらゆる母との思い出はこれからの人生を進んでいくわたしにとって本当に重要な礎であると言えるが、女性が男性と同じように働く社会を本当に実現したいと思うのであれば、わたしは自分自身の価値観も変えていかなければならないのだ。だからわたしも近々スーパーでポテサラを買いたいと思う。。