女は女である

雑記帳

「天国の口、終わりの楽園。」(2001・メキシコ)

天国の口、終わりの楽園。」

2001年公開のメキシコ映画。R15指定にも関わらず本国で大ヒット(その過激さゆえ、かもしれないけど)した青春ロードムービー。監督は去年の話題作「ゼロ・グラビティ」を製作したアルフォンソ・キュアロン。「パンズ・ラビリンス」も「アズカバンの囚人」も彼らしい。幅広い。

フリオとテノッチは、高校を卒業したばかりの17歳。テノッチは政治家の息子。親には経済学部へ行けと言われているけれど、作家志望の彼は本当は文学部に入りたい。フリオは秘書の母と姉との三人暮らし。二人は親友というよりも悪友で、ふたりでつるんではくだらないやんちゃをする。バカンスを目前に、お互いの恋人がヨーロッパ旅行に行ってしまい、退屈な夏休みを予感する二人はドラッグやパーティをして明け暮らす。ある日テノッチの従兄の妻である魅力的な女性・ルイサと出会い、彼女とともに存在しない美しい海岸「天国の口」へドライブで向かうことになる。

メキシコのからっとした風景とは対照的な、思春期の男子のべとつくような性欲の強さにはおどろくばかり。二人の頭の中はセックスのことでいっぱい。ルイサと遠出するのも彼女とセックスしたかったからだろうし、二人の関係を変質させてしまう原因になるのも、テノッチのガールフレンドと寝たことがあるというフリオの告白。原題の”Y tu mamá también”は和訳すると「お前のママとも」これは終盤、フリオの母とセックスしたことを告白するテノッチの台詞。

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いつもばか騒ぎをして遊んでいても、二人の生活はなんとなく空虚感が漂っていて、現実感がない。二人が遊ぶのも、つるむのも楽しいからというよりは、ありあまる時間とエネルギーとをなんとかやりすごすためにしているように見えてしまうくらいだ。それとは対照的なのがルイサ。テノッチに「哲学者みたい」といわれるように、どことことなく物思いに耽っている、陰のある雰囲気をまとっている。彼女は早いうちに両親を無くし、彼女を育ててくれた親類が病気になったのを機に夢をあきらめ歯科衛生士になった。はじめての恋人は事故で失い、現在の夫からは浮気をしたことを告白される。明るく美しい彼女だけれど、人生でおきうるあらゆる不運を経験している。それに物語の終盤で明かされる、大きな秘密も抱えている。富裕層で遊び暮らす、能天気な二人とは正反対。三人は一緒に馬鹿話をしながら海岸へと向かうけれど、ルイサにとって、少年たちのただのひまつぶしもひとつひとつ重さを持っているのだろう。

二人はいつのまにか疎遠になる。街で偶然出会ってもよそよそしく、なんだか気まずい雰囲気が二人の間に流れる。その変わり具合がいい感じにリアルで、よくある青春ロードムービーと一線を画しているのかもしれない。二人の心に残った重さ、ビターさは、二人が精神的に彼女に追いついたときに突然迫って感じられるのだろうか。

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ベルリン、天使の詩(1987・西ドイツ)

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ドイツの巨匠ヴィム・ヴェンダースが監督し、後年ハリウッドでニコラスケイジ主演のリメイクもされた本作。

まだドイツがベルリンの壁によって東西に隔てられていたころに撮影された映画。だから舞台はベルリンだけど、この映画に登場するベルリンはもうどこにも存在しない。

 

天使ダミエルが空からベルリンの街を眺めている。天使といっても、金髪で白い服をまとった美しい少年少女じゃない。黒いコートを着た冴えない中年のおじさんたちである。天使は「永遠の霊」として地上に降り、人々に寄り添うのが仕事なのだ。彼らには人々の心の声が、ささやきのように聞こえる。人々の哀しみや怒り、絶望、希望に耳を傾け、時には肩を抱いていたわってやる。子どもは天使の姿が見えるが、大人には見えない。いつも通り街を彷徨っていたある日、ダミエルは空中ブランコ乗りの美しいマリオンに出会い、恋に落ちてしまう・・・というお話。

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 天使が見る世界はモノクロ。穏やかでシンプルだけど、とても単調で味気ない。しだいに主人公ダミエルは永遠につづく天使の生活に疲れを見せはじめ、人間の生活に憧れるようになる。劇中、彼はこう独白する「永劫の時に漂うよりも、自分の重さを感じたい 僕を大地に縛り付ける重さ、重力を」。 ダミエルが人間に変わり、映像がモノクロームから鮮やかなカラーに変わるシーンにははっとさせられる。世界に色がついた瞬間、ベルリンの壁の落書きや町並みは存在感を増し、互いにぶつかり合う。常に人間の営みを観察する第三者だったダミエルが、当事者へと変わり、そのざらざらな世界にひとつの存在としてたちあらわれ、また世界の要素たちとぶつかりあうのだ。さまざまな色が主張し合うことで、世界の粗雑さ、混沌さが明らかになる。でもその混沌さ、コーヒーの暖かさ、ダミエルの傷口から流れる血と感じる痛みのひとつひとつが「生」を強く感じさせる。

 

美しいものをぎゅっと凝縮して詰めたような映画。人々の心のささやき声や天使の独白のひとつひとつのことばが詩のようで。図書館で黙読する人々のささやきが重なり合い、ハーモニーになるシーンは特に圧巻。シンプルなストーリーラインを、詩的なことばとモノクロの映像美が装飾している。

 

少しでも眠いときは観ない方がいいけど、何か美しいものを観て心を落ち着かせたいときにうってつけの映画。とりあえず大好きでしかたがない映画。

 

牧師の娘であるということ

 私はクリスチャンじゃない。だからといって、まったくクリスチャンじゃないとも言い切れない。キリスト教に対して特別な愛着を抱いている一方で、教会で生まれ育った中で経験したことにより、あいまいな、複雑な感情も抱いている。
 牧師の父とクリスチャンの母の間に生まれた私は、教会の中にある牧師館の中で育ち、暮らしている。付属の幼稚園では多くの賛美歌を覚え、クリスマスにはページェント(生誕劇)の練習をし、小学校にあがってからも毎週日曜日には教会学校に通ったものだ。
 ものごころついたときから、聖書のお話も賛美歌のひびきも、とても気に入っていたのをよく覚えている。創世記、エデンの園とアダムとイブ、バベルの塔ノアの箱船、ヨセフの夢分析モーセ出エジプト、英雄ダビデゴリアテ、髪を切ると力を失う強者サムソン、イエスキリストのたとえ話。挙げればきりがないほど、繰り返し読みかえした物語ばかりである。あまり身近でない食べもの、たとえば種なしパンやぶどう酒、からしだね、いちじくが出てくるたびにどんな味か想像していたものだ。ディズニーで映画化されてきたようなおとぎ話たち(多くはうるわしい少女と王子様の恋物語という王道)もたしかに魅力的だったけど、西洋とはあきらかにちがう雰囲気をまとった聖書の物語たちは、どこかエキゾチックで、強烈な魅力があった。
 賛美歌の、落ち着いたリズムも好きだった。毎週毎週繰り返し歌うものだから、賛美歌は100くらいは覚えてしまったと思う。ハーモニーのたのしさを知り、老若男女のうたごえがまじわったあのくぐもった合唱の声を好きになった。
 年齢や立場に関係なく多くの人と交流できるところが教会の良さの一つだと思う。教会員の多くは大人で、その中でも特に高齢者が多い。そして、それにそのひとりひとりがほんとうにやさしいのだ。わたしがどんなにわがままを言おうと、ゆるしてくれる。精神的な障害を抱え、まわりに迷惑になるような行動をしてしまう人に対しても、ゆらがないあたたかなまなざしをあたえてくれる。相手がどんなことをしようと、あたたかい態度で迎える。それが当たり前のことだとわたしは思っていた。キリスト教の教義とそれを信じる人たちはいつもはあたたかく、優しく、そして圧倒的に正しかった。
 
 でも、その教義は学校という「世俗」の社会で生きていく上では役に立たなかった。逆にわたしが社会に適応することを一段と難しくしていた。
 キリスト教と離れた世界、つまりふつうの公立小学校は、わたしにとっては異質なものに感じられた。学校では、コミュニティの生成員がみんな同じ子どもで、会話も、皆が好きな音楽やテレビ番組もとてつもなく速いリズムでできている。ゆっくりと耳を傾けるコミュニケーションに、ゆっくりしたテンポの賛美歌に慣れていたわたしは、そのスピードにあぜんとした。
 
 小学校の世界で大切だったのは、優しさや正しさ、あたたかさなんてものじゃなかった。多数派になり、味方を増やすことが大切だった。優位にたつには、やさしさやただしさなんかより、みんなにウケるような面白さや、腕っ節の強さ、外見の可愛らしさ、ときには、友人に対してきっぱりと悪口を言い放てる才能も必要とされていた。畏れられること、優位にたつことが大切だった。強くならなければならなかった。つまり、強さこそが神だった。
 小学校の社会と、教会で信じていたことと、ふつうの世界には大きな隔たりがあった。いま使えることばでいうならば、現実の世俗世界では、「相対的」な正しさしか存在せず、「絶対的」な正しさしか存在しなかった。空気で決まった価値基準が私たちを支配し、つねにさばいていた。
 教会の、真っ白な温室のようなやさしい世界から、世俗の無機質でときにいじわるな世界に慣れること、強くなること、ものごとにいちいちこころを動かさないようになるということが、この世界で生きて行くということだと思うようになっていた。そう考えているうちに、教会の説教はどこかのおとぎ話にしか聞こえなくなってしまった。キリスト教や教会の雰囲気は大好きだけど、教会へ毎週行くことはなくなったし、父が毎回唱える食前のお祈りは聞き流すだけのものとなってしまった。
 大人になって、強さこそが世界を支配しているなんて、そこまで極端に考えることはなくなったけれど、やはり教会の教義と現実の世界との乖離にキリスト教からは距離をおいている。

うまく生きていけるようになることは、感じられなくなるということ

 私は今、ふつうに「女子大生」をして暮らしている。

 きっと大学の友人や出会う大人からは"意識の高い"大学生だって思われているけれど、ふつうに学校へ行き、同年代の男の子と恋をし、サークルのことでときおり悩み、着る服に悩み、バイトに疲れて家に帰るような、ふつうの女子大生なの。

 でも、引きこもりだったときのこと。たまに思い出すのよ。

 

 学校に行っているときは教室のすべてから疎外されていると感じたし、学校にいくのをやめてしまってからは、社会の標準から疎外されていると感じた。学校に通っている間は、うまく頭を使って生きていたから、いじめられることはなかったけれど、まわりの目や動向をつねに気にして、自分の価値観を否定するような振る舞いをすることはうんとエネルギーを消費してしまうものだった。不登校になってからは、外の価値観からすれば私はただの「不登校児」で、私のステータスは人々からあっというまに「底辺」というカテゴリーに入れられてしまうものだった。

 わたしのうんと高いプライドはそれを許さなかったから、めいいっぱい古典を読んで、映画を見て、いっぱい英語とフランス語を勉強して、学校へ行かない間は、自分なりに自分の思考を鍛錬してやる、と思っていたわけ。

 でも、やはり、不登校をするということは難しいことだった。ひとりでいると、わたししか話し相手がいないわけだから、当然自意識は肥大してくる。自分の存在価値とか、ステータスとか、自分がなにをもっているか、とか、そういうことばかり考えてしまう。自分へ向かうベクトルから気をそらすためにも、本や映画は役に立っていたけれど。

 すごくすごくつらかったけど、あのころは、表皮がはげてじゅくじゅくとした肉をさらしていたぶん、もっともっと感じやすかった、と思う。思い切って外に出てみても、街の人々の生む雑談とか、足音とか、クラクションの音とかが自分に迫ってくるように感じたし、視線や、ネオンライトが、自分を突き刺すように感じた。それはつらいものではあったんだけど、うつくしいものにも心を動かすことができるといういい点もあったんだ。わたしの部屋から見えるステンドグラスの光のゆらめきや、差してくる陽のあたたかさ、空の色、雲の形、すべてを鮮明に覚えていた。ドストエフスキイの「白痴」の一節に感動したり、映画「フィアレス」の登場人物の悲痛な表情に胸の痛みを感じたり。

 あまりにも敏感すぎたら、きっとうまく生きていくことはできないんだけど、いま表皮どころかかさぶたでぶあつくなった私の肌は、どんどんいろんなことへの感性を失ってしまったような気がするのだ。うまく生きていけるようになるということは、感じられなくなるということに一種同義なのかもしれない。

 

百年の孤独

 

 

わたし、孤独感っていうものがなんなのか、しばらくのあいだ忘れてた。

きのう、わたしのこころから沸き出した孤独感は、あっというまに爪の先まで行き渡って、からだをおおうすべての皮膚の感覚を、うんと鋭敏にしてしまった。感覚は限りなく鋭くて、そしてなぜかとても息苦しい。胸のあたりに大きななにかがかぶさって、思うように息ができないのだ。もっと大きな世界で、周りの目を気にせずうんと空気を吸い込みたい。

 

孤独感は、自分の感覚が異質なのではないか、と思ってしまうこと。

だから自分の感覚を押さえつけて、その場の文脈にそったレスポンスをしようとしてしまうこと。自分の気持ちを尊重できないってこと。

ムード・インディゴ うたかたの日々(フランス・2013)

 

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渋谷のCINEMA RISEで「ムード•インディゴ」のディレクターズカット版を友人たちとみた。

 私はフランスの戦後の知識人やら哲学の動きや共産主義の勃興あたりの雰囲気がとても好きなので、この映画もきっと好きになるのだろう、と思っていた。というかそもそも原作も先に読んでいた。

 原作がもともととてもファンタジーなので、これをどう映像化するのだろう、と思っていたけれど、この映画は原作をうまく踏襲していると思ったよ。

 この映画はラブストーリーだけれど、テーマはもしかしてお金なのかもしれない。コランは幸せそうな友人たちをみて恋人をほしがる。そのままパーティにいって可愛らしいクロエに出会う。クロエもまんざらではない様子で、二人はそのままつきあう。そして結婚。恋に障壁なんてなんにもないし、順調そのものなのだ。だから恋愛云々をテーマにしている訳ではないのだろう。

 ものがたりの冒頭、コランとその料理係のニコラ、そして「パルトル」かぶれのシックはパステルカラーの騒がしく動く食事たちを囲んで、たわいない会話を楽しむ。カクテルピアノや料理人が住んでいるテレビなど、魅力的なものに溢れ、ぜいたくをして過ごしている。映像はずっと目に痛いくらいのビビッドさ。このとき働かなくてもすむコランの残りの資産が最大。でもお金が急激に減っていくにつれて、どんどん映像は色彩を失う。お金が尽きたとき、気がつけばいつのまにか映像はモノクロになっていた。デュークエリントンの「ムードインディゴ」のナンバーと同じ。だんだん暗くなっていくわけ。お金の問題の切実さを、ボリス・ヴィアンは人一倍、めいいっぱい知っていたのだろう。

 

 

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