女は女である

雑記帳

ルソーの国際政治観

 ルソーは、『学問芸術論』『政治経済論』『人間不平等起源論』『社会契約論』のいずれにおいても、国際関係については踏み込んだ議論を行っていない。ルソー自身も、『社会契約論』の結語では「国家をその対外的な関係によって強固にするという課題がまだ残っている」(411)と自らの議論における国際政治への言及の不足を認めており、またこれら「国際法、交易・戦争権と征服権、国際公法、つまり同盟・交渉・条約など」(同)は、彼が扱うには「あまりに広大な新しい対象」(同)であると語っている。しかし、彼の国際政治観をうかがわせる記述は、数は少ないもののこれらの文献でも散見される。今回は、これらの関連記述から、ルソーの国際政治観を明らかにしていくことを目指す。具体的には、彼の国際関係観の思想的区分における位置、彼の国際秩序の構想、そして彼が理想とする国家間関係・外交の在り方について分析を行っていく。

 まず、ルソーの国際関係観は、国際秩序の構想の思想的区分においてどう位置づけられるのだろうか。この点について、藤原氏の議論を参考に考えていきたい。藤原帰一氏によると、これまで国際秩序の構想については二つの柱を中心に議論が展開されてきたという。第一の柱は「制度化の可否」である。つまり、国際関係において各国が「互いに共通の利益や理念を見出し、協力することは可能なのか」という問いである。これが可能であるとき、条約を締結し、国際機構を形成し、権力の制度化を達成できる。この制度化の可否に対する見方によって、「制度・協調」と「無秩序・対立」という双極の立場が生まれる。第二の柱は、国際関係における主体をどうみなすかという点である。現在の国際社会においては、各国を拘束する絶対的権力が存在しない。ここでは、国家を主体とみなし国家が構成する「国家の社会」に着目する見方、そして国内の個人や社会を主体とみなし、「市民の社会」としての国際関係に注目する見方とが生まれると藤原氏は論じる。国際政治は「国家を主体とする体系である」とする考えは、リアリズムと呼ばれる思想的潮流の重要な特徴である。

 

 最初に、第一の柱、つまりルソーが国際関係における制度化の可否についてどのような考えを有していたのかについて検討していきたい。『人間不平等起源論』の論調からは、ルソーが国家間にある法は「自然法」のみであるとみなしていることが推察される。ルソーは社会の数が増加し、市民法がさまざまな場所で広く成立した結果、自然法は「国際法という名のもとに」(111)、社会間でしか実施されなくなったという。しかしこの自然法も「取引を可能」(同)にするため「暗黙の約束によって緩和」され、結果、個人間では存在した「ほとんどすべての力」を、社会と社会との間においては失ってしまったという。そして、その力は「幾人かの偉大な人道主義者の魂の中にしか存在しなくなった」(同)と皮肉めいた言葉で締めくくっている。ここで、自然法である国際法は、国家間においてその効果を発揮していないことを示唆している。

 またルソーは『人間不平等起源論』の序文「ジュネーヴ共和国にささげる」において、「国家の外の人間」が法を国家に無理に押し付けて認めさせること」(5)を許されえないとみなしている。これは理想の国家において「国家の機関がすべて共通幸福の実現」(同)に向かうためには、主権者と人民の利害の一致、つまり「人民と主権者とが同じ人間でなければ行われえない」(6)と考えているからである。この考えに基づくと、国家間で制度や法律が生まれるためには、統治する側と統治される側とが完全に一致する必要がある。つまり、成員が国家から成る社会、国際社会の存在が必要となる。

 しかし、ルソーは国際社会、そしてそこにおける統治の成立可能性に対して懐疑的であるといえる。なぜなら、ルソーは部分社会の存在について否定的であり、また大規模な社会の成立を不可能であると考えているからである。これは、ルソーの描く「一般意志」の成立のためには「国家の中に部分的社会がなく、各市民が自己の意志だけに従って意見を述べること」(242)が肝要であるとみなされているためである。「社会の絆がゆるみ、国家が弱まりはじめ」、「特殊利益が感じられ、多くの小集団が大集団(国家)に影響力を持ちだす」とき、共同利益はそこなわれ」(352)る。ここで、国にとっての一般意志とは国際社会における特殊意志になりうるため、ルソーの描く国家像と国際社会での統治とは共存しえない。

 では、国際社会でたった一つの社会を形成し、一般意志を確立することは可能だろうか。ルソーはこれについても否と答えるだろう。ルソーは理想的な社会の統治のためには適正な規模が必要であると考えており、大規模な国際社会での一般意志の成立、つまり世界市民からなる社会を実現不可能なものとしてみなしているようであるからである。『人間不平等起源論』においては、人間性の感情(人間愛)は広がるほど薄まるものであるため、これを同胞市民のあいだに「限定・圧縮する」(72)必要があると述べている。

 同様に、『社会契約論』においても「国家の領有しうる面積には一定の限界」(266)があると論じ、首長や無縁の同胞市民に対する愛情を感じなくなることから、「社会的紐帯」(266)がゆるむことをこの理由として挙げている。また、「同一の法を異なる習俗・風土に適用できず、紛争や混乱が起きること」(267)、「政府の権威の維持」に必要な政務の肥大化が、国家の弱体化につながることも指摘している(268)。同様に、『政治経済論』においてルソーは特殊意志と一般意志の一致という徳を広めるためには祖国愛が必要であることを強調し、これを促進する公教育の必要性も述べている。以上から、ルソーは国家という主体からなる国際社会の形成は困難なものとみなしているとことが推察される。

 つぎに、第二の柱、つまりルソーが国際関係の主体をどこに求めているかという点について検討していきたい。ルソーは、国際秩序における主体を国家とみなしているように思える。『社会契約論』において、国家間の戦争は「個人と個人との関係」ではなく「国家と国家との関係」(217)であるという。これは、性質の異なるものごとのあいだに、「いかなる真の関係も確定できない」とすれば、各国は人間を敵とすることができないのであり、また「人間が原始的な独立状態で生活しているとき、相互間に平和状態や戦争状態を作り出すほど恒常的な関係を持たない」(216)からであると述べている。ゆえに、戦争を起こすものは「ものごとの関係」、つまり「国と国の関係である」であると論じている。

 ここで、これまでの論点を総括したい。まず「制度化の可否」を論じる第一の柱について、つまり、国際関係において国家主体が共通の利益や理念をもとで協力する可能性について、ルソーは否定的である。そして、第二の柱については、ルソーは国家をその唯一の主体としてみなしている。以上から、国際関係についてルソーは、国内統治についての議論でしばしば批判の対象として引用していたホッブズと類似したリアリストであるといえるだろう。ルソーは、しばしば、人間の本性について生存本能しか指摘せず、あわれみの情を抱くという人間本質を考慮に入れていないとしてホッブズを批判している。ここでは、人と人ではなく、ものとものの関係である国家間関係においては、このあわれみの情という特性が発揮されないことが、二者の考えの類似を生んでいると考えられる。

 では、ルソーはどのような国際秩序像を描いているのだろうか。中西寛氏によると、「国際政治」とは「主権国家体制」「国際共同体」「世界市民主義」の三つの位相が混じったものであるという。「主権国家体制」とは国際政治の基本単位を国家のみとし、その主権は不可分・不譲、これらの主権は互いに対等であるなどという要素によって構成される思想体系である。「国際共同体」とは、国際政治の基本的単位として国家以外にも国際機構や社会集団、個人も認め、主権は部分的に分割・委譲可能であり、また諸主体はある価値や目的を共有できるいう考えを骨子とする構想である。最後に、「世界市民主義」とは国際社会における基本的単位は個人であり、個人は最終的には国家ではなく世界に帰属し、世界統一によって平和がもたらされるという考えを指す。

 部分社会からなる社会を否定し、統治の対象となる規模に限界をみるルソーの考えは、「国際共同体」「世界市民主義」いずれの成立可能性をも否定するものであるといえるだろう。ルソーの描く国際秩序は、当時の支配的な考え方であった「主権国家体制」をベースにしており、その域を出るものではないといえる。

 では、ルソーにとっての理想の外交とはどのようなものであるといえるだろうか。ルソーは理想の国家を、他国に依存せず、独立した存在とみていることが伺える。『社会契約論』においては、立法にふさわしい人民として「突然侵入を受けても圧倒されるおそれがなく、まだ隣国の紛争に巻き込まれず、そのいずれにも独力で抵抗でき」(272)「一方と相互に助け合って他方を撃退できる人民」(272)「他の人民がなくてもすみ、他の人民もそれがなくてすむもの」(272)と述べている。

 ルソーは貿易についても、他国への依存を高める可能性や全国民に利益を与えないとの理由から消極的である。同章の脚注では、「賢明な国民ならばすべて他方をこの依存状態からすみやかに解放することに努めるだろう」(273)と述べており、またメキシコ帝国内にあったトラスカラ共和国がメキシコから塩を購入することをやめ「自由を維持」したことを賞賛すべき例として挙げている。また、「外国貿易のある部門は、王国一般にとって、見かけだけの利益を与えるのみである。それは幾何とかの個人を、いくつかの都市さえ富裕にするが、全国民は何らの利益も得ることなく、人民はそれによって改善されるところはない」(276)と外国との交易についてもネガティブな見方を示している。

 また、ルソーは征服や帝国主義も批判をしている。『政治経済論』においては、征服欲は支出の増大を招く危険の原因の一つであるとみなしており、その真の動機は「国家を強大にするという外見上の願望」(90)よりも、むしろ軍隊の増強の助けを借り、戦争が市民の心につくり出す気晴らしを利用して、首長の権威を国内において増大させる」(90)と指摘している。これらの記述から、ルソーは理想の外交とは他国と最小限の関係をもつにとどめ、独立した、他国へも他国からも不干渉な国家を保つことであると考えていたことが推察される。

 結論として、ルソーは国際関係について極めてリアリスト的な見方を有していたといえるだろう。藤原氏は「国家の正統性についての思想の変容」や「王権神授説から社会契約論への転換」は国際政治の担い手を「国家から社会に引き下ろした」と論じている。ルソーは当時の趨勢的な考え方であった、主権国家体制を基本とするリアリズム的国際政治観の域を出なかった。しかし、興味深いことに彼がもたらした人民主権の考えは国際社会の構想におおきな変化をもたらし、リベラリズム、「国際共同体」や「世界市民主義」の考え方を生むきっかけとなり、彼の考えとは異なる国際関係の思想とその台頭につながったのである。

 

引用

中西寛著(2003)『国際政治とは何か』中央公論新社

藤原帰一(2007)『国際政治 (放送大学大学院教材)』放送大学教育振興会

ルソー, ジャン=ジャック. 小林善彦, 井上幸治訳(2005)『人間不平等起源論・社会契約論』中央公論新社

ルソー, ジャン=ジャック. 『学問芸術論』

ルソー, ジャン=ジャック. 『政治経済論』