女は女である

雑記帳

マイノリティになること

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(Rinko Kawauchi)
アメリカで暮らしはじめて、今まで自分が日本の文化的コンテキストでしか通用しない記号に包まれて生きていたのだ、ということを深く実感してる。
 
説明を省略しても伝わる記号、そして自分のステータスをある程度保持してくれる記号は、アメリカ独自の文化的コンテキストの中ではもう効力がないもの。自分の文化や自分自身を理解してもらいたいと思っても、それには高い表現力が必要とされるし、まずその前に相手に耳を傾けてもらうこと、つまり関心を抱いてもらうことが不可欠になってくる。まったく異なる文化的コンテキストに飛び込んだ今、コミュニケーションとは何なのかということをよく考えているよ。
 
アメリカの学生たちが共有している、スピーディーでスマートなコミュニケーションの流れを、英語がやはり不十分で、この国で使われている記号を理解していない異邦人である私がとどめ、滞らせてしまうこと、それはとっても気後れしてしまうもので・・・。だからついついコミュニケーションに受動的になってしまう私がいる。
 
これは、いわゆる「マイノリティ」である人々が感じることなのではないのだろうか。
昨日不注意で足を捻挫して、歩くのがおっくうになっていたのだけれど(病院で検査したところそんなに大事ではなかった)。周りの人々よりも遅く、右足を引きずって不格好に歩く私、そして一緒にいる友達にもゆっくり歩いてもらわなければいけない申し訳なさに少し自己否定の気持ちさえ覚えてしまう。
 
脚を捻挫していることと、異邦人であることを結びつけるのは突飛かもしれないけれど・・・。主流の人々が作り上げた円滑で効率的な流れを混乱させ、阻んでしまう存在になることは、とても不安な気持ちになることだと感じている。「主流と異なっていること」「多くの人にあるものが自分にないこと」が、気詰まりさを引き起こし、自己肯定感を低くし、そしてものごとに対してなんとなく受動的な態度にさせてしまうことを、なんとなく理解し始めているよ。
 
英語力の改善や多様な価値観に触れることができるのも留学の魅力にはちがいない。でも私にとって一番の留学の良さは、このような「日本では絶対に感じられないこと」を感じることができるというところなんだ。
 
 
 
 
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今のところ私の履修科目は
“International Human Rights”,
“Topic in Art History”,
“Honors Seminar”、
” American Literature and Political Culture”の4つ。
リーディングの量の多さはさることながら、授業のスピーディーなやりとりのリズムにびっくりしています。大変なぶん、勉強をしているという感覚を強く抱くことができそう。
 
 どれも面白いけれど、なによりも面白かったのは美術専攻の学生も多い”Topic in Art History”のクラス。扱うのは20世紀のモダンアートで、ものすごい量のリーディングの宿題が出る。現代美術が好きな私にとって内容はもちろん興味深いものだけど、それよりもこの授業で使われている英語に惹き付けられているの。この先生やリーディング課題で使われている英語は、批評のときに用いられる美しい英語で、読んでいるだけでとてもわくわくする。
 
 私にはまだまだ英語のことばのニュアンスが明確には分からないし、使いこなせないので、英文を書くときはいつもとりあえず知っていることばを乱雑にパッチワークしているような気持ちになることもしばしばで・・・。この美術史で使われる英語は、あるべき場所にあるべきように配置されているし、著者や先生のあらわしたいニュアンスを的確に表現するもの。この授業に取り組む中で、英語でのことばの表現力を学びたいと思ってる。

映画を好む人には、弱虫が多い

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名画座に行きたい。中はがらんとしていて、薄暗くて、いつもタバコとコーヒーのいりまじったような匂いがする。だいたいおじいさんやおばあさんがちらほらと座っているだけだから、人ごみがどうしても苦手な私にはちょうどいい場所だ。古い椅子は、座るとギイとあやしくきしむ音がする。多くの人が座ってきた椅子に私も座ると、ふしぎなくらいに私の体がぴったりと収まることにきがつく。換気をしない小さな映画館では、あっという間に酸欠になってしまう。そのせいでやたらと頭がぼうっとしているから、私のおしゃべりな思考に邪魔されることなく、映像が、台詞が、こころにすっと染みてゆく。パソコンやテレビはそれ自体に存在感があるので、その存在が私と作品との純粋な関わりを妨げてしまうけれど、映画館ではあっというまにその世界に浸ることができる。名画座に入ったときはまだまだ外は明るかったのに、出る時にはもう辺りはすっかり夜になっていることにきがつくと、自分がまるで違う世界に長い間いたかのような気持になるものだ。

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「映画を好む人には、弱虫が多い。」と太宰治は言った。「私にしても、心の弱っている時に、ふらと映画館に吸い込まれる。心の猛っている時には、映画なぞ見向きもしない。時間が惜しい。」

 映画を好む人には、弱虫が多い。私もそう思う。たまらなく落ち込んでいたり、自己卑下の念にかられていたり、どうしようもなく不安な気持ちになっているとき、うす暗い映画館の片隅にある小さな席はこのうえない逃げ場所だ。チケット代を払ったから、その席に座る権利が私にはある。だれからも私の顔は見えない。だれも私を見ることはない。

 私はつねに受動的でいることができる。私は映画の中でおこっていること、とは直接的な関係がなく、安全な場所にいる傍観者でいられる(なかには第三者でいる観客の目を醒させようとするような映画もあるけど)。

 映画は、私の存在を一時的に消失させてくれる。私はただの傍観者で、私の人生の主人公ではない。映画の主人公が、2時間だけ私の世界の主人公に代わる。わたしの意識のすべてがスクリーンに、登場人物たちの表情に、モノローグに集中する。フロムは「人間の孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいというもっとも強い欲求を満たすための人間による行動」はお祭りとかアルコールとかセックスとか恋愛だっていっていたけれど、映画や本だってその役割を担っていると思う。自分が単体だということをわすれて、映画の中に溶解できる。

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 なにより、映画は弱者の生活にやさしい。社会的地位や成功、富など、今の社会の原理となっていることがらへの疑念のまなざしを向けるものが多い。野望なんて意味が無い。自分のこころの機微をたいせつにしなさい。自分の身の回りのものを大切にしなさい。日常生活ではなかなか信じることができないけれど、こう信じたら今の生活が楽になること、をうったえかけてくれる。

 冒頭の文章は、彼の「もの思う葦」というエッセイ集に納められた「弱者の糧」の序文の一部。彼はじっくり文章を読むくせがあるので、字幕映画が苦手だったそう。だから日本映画を好んで、海外のものはあまり鑑賞しなかったんだって。彼には映画は「芸術だと思っていない」そうだけど、今の多様化した映画を観たら考えを変えるかしら。

赤い風船(1956年・フランス)

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舞台はパリ20区のメニルモンタン。36分の短編作。コクトーが「妖精の出てこない妖精の話」と評したといわれるおとぎ話で、まるで絵本を眺めているかのような映像の美しさが何よりも印象的。いわさきちひろが絵本化した「あかいふうせん」はけっこう有名らしい。

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メインの登場人物は主人公の少年パスカルと真っ赤な風船。ある日パスカルが電灯にひっかかっている赤い風船を見つける。その風船には意思があるようで、まるで子犬のようにパスカルに懐き、彼の行く先々についてくる。雨の日にはパスカルは風船を傘に入れてやる。パスカルと風船はパリの町並みを、楽しそうにめいっぱいかけまわる。

 

パスカルがとにかく愛らしい。パスカルはラモリス監督の実の息子だそうで、その愛らしさを画面に最大限に引き出せたのも納得。

 

パスカルが風船を呼ぶ”balloon!”ということば以外に台詞がない、究極的にシンプルな36分の物語。風船を買い集めて空を飛ぶことを本気で計画していたような、だれもが経験した子どもの時代を憧憬させる。説明よりも、ただぼんやりと感じるのが一番の鑑賞法かもしれない。

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パリ20区、僕たちのクラス(2008・仏)

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「パリ20区、僕たちのクラス」

2008年、第61回カンヌ映画祭で最高賞のパルムドールを受賞した本作。

巨匠写真家ウィニー・ロニスに街角の風景を収められた写真集がカルト的な人気を博すパリの20区は、パリの中でも移民の多い庶民的な下町として有名。

この映画の舞台となるのは、パリ20区のとある中学校の教室。国語教師のフランソワ先生と、彼が担任する24人の生徒の新学期からバカンス休暇までの、教室での一年間が描かれている。

とにかくこの映画はリアル!事前知識なしで見たら絶対にドキュメンタリーだと思ってしまうくらい。それもそのはず、登場する子どもたちは皆演技未経験なのだ。劇中の名前も本名、7ヶ月のワークショップを経て選抜した子供たちと、監督自ら一人一人とじっくり面談してから配役を決めたからか適役ばかり。 成績優秀なフランス人の少年、数学が得意な中国人や、ヒップホップルックのマリ人の不良少年・・・。人種も宗教も家庭事情も多種多様な24人の子どもたちは、国際色が増していくフランスの混沌を象徴しているかのよう。三者面談をしても、フランス語ができない親に子どもが翻訳しなければいけなかったりする始末。

パステルカラーのマカロン、ブランドのバッグ、美男美女の白人のカップルを連想するようなありがちなフランス像とは正反対の、雑多でリアルなパリ。グローバル化っていうと、アメリカをイメージしてしまうけど、フランスだってどんどんグローバル化してるのだ。 いろんな出自の子どもたちが一緒くたに教室に座っている光景は、日本の学校では全く見られない。 こういう映画を見る人は娯楽なんて期待してないと思うけど、学園モノにありがちな感動なんてない。だから「泣ける映画」を求める人は観ないほうがいい。金八先生みたいな熱血教師は出てこない。フランソワ先生もワガママな子どもと口論しているうちにぽろっと侮蔑的な言葉を発してしまうような、ふつうの人なのだ。そもそも、先生に完璧さを求めるのはメシア待望論に近いのかもしれない。

本当は、聖人のような先生なんているわけがない。 退学処分になって(おそらく)故郷のアフリカへ送り返される問題児、学年の終わりに、「私、この一年間で学んだものは一つもありません。何一つ、新しいことは覚えませんでした。でも、就職組になるのは嫌です」という少女。先生に無力感を与えたに違いないこの二人の生徒は、教育が子どもにできることの限界を痛いほど感じさせる。劇中に登場する生徒たちの問題は、何一つ解決されない。

それでもフランソワ先生は教育に取り組み続けなければいけないのだ。その中でも時折見える、熱心に勉強に取り組む生徒の姿、褒められた問題児が見せるあどけない笑顔に思わずじーんと感動し、こういうことがあってこそ、先生は先生を続けられるのかもしれない、と思ったり。 教育関係者、またはいやでも学校関わらなくちゃいけない学生たち、いやでも学校を忘れられない大人、にはオススメの映画。

ところで、原題は”Entre les murs”、直訳にすれば「壁の間」。確かに原題そのままだと教育映画だってこともわからないし、フランス映画だってことも分からないけど・・・。「僕たち」の「僕」ってだれなんだろう、とか考えちゃいました。最近の邦題のむりやりな改変は疑問。題も作品のパーツの一部でしょうに。

4ヶ月、3週と2日(2007・ルーマニア)

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4ヶ月、3週と2日」(ルーマニア,2007 クリスチャン・ムンギウ監督) 2007年公開のルーマニア映画。ルーマニア映画って、どんなものかピンとこない人も多いかもしれない。

じつは2000年代に入ってからルーマニアは若い才能をつぎつぎに輩出する映画新興国になってきていて、世界各地の映画祭などでも毎年注目を浴びている存在。最近では2013年のベルリン映画祭でもルーマニア映画「Child’s Pose」が最高賞を受賞。社会主義の崩壊時に10代20代だった世代が、その後海外の映画文化の影響を受けて、映画をつくりはじめるころなのかもしれない。

舞台はチャウシェスク大統領による共産主義独裁政権下のルーマニア。1987年という設定で、これはチャウシェスク大統領政権の末期。ルーマニアではかねてから労働力を増やすための人口増進政策が進められていた。10人以上子供を持つと「英雄の母」という称号を与えられるほど。もちろん人口を減らすような離婚や堕胎は固く禁じられている。そんな状況下、ルームメイトのガビツァの違法堕胎手術を助けるために奔走する主人公である大学生オティリア。

この映画、とにかくすごくイヤーな作品。独裁政権下のルーマニアは典型的なディストピアで、劇中に登場する電灯のつかない夜の街や物資不足に困る人々の様子は当時のルーマニアの凄惨さを思わせる。自分の危険を晒してまでガビツァを助けようオティリアに対し、ガビツァ本人はどこまでも自分勝手で無責任だ。ガビツァを助けるために奔走するオティリアが、ガビツァの施術後に恋人の母親の誕生日パーティに参加するシーン。楽しむことが出来ないお祝いムードを壊してしまうオティリアは、彼女の事情を知らない者にはとてつもなく自分勝手に映るだろう。オティリアの事情なんて誰も理解することはできないし、しようとも思わないだろう。そんな様子に「人生ってこんなものだよな」と妙に納得してしまう。他人が、ある人の事情を想像して理解することはできない。自分の事情を説明することはとてつもなく難しいこと。

社会主義政権下で、だれしもが困窮している時代。だれしもが「自分は困っている」と考えることで、自分を守ることを正当化し、他の人には尊大に横柄に自分の主張を押し付けている。悪い環境の中で、人間としての尊厳を保つことはうんとむずかしい。

BGMもなく、映像もひたすら主人公を追うだけ。映る共産主義政権下のルーマニアの町並みは、質素で廃れている。華美さを徹底的に排除したことによって、主人公の緊迫した心情やスリリングな展開が身に迫って感じられる。今まで見たどんなスリラー映画よりもスリリングだったかもしれない。

「天国の口、終わりの楽園。」(2001・メキシコ)

天国の口、終わりの楽園。」

2001年公開のメキシコ映画。R15指定にも関わらず本国で大ヒット(その過激さゆえ、かもしれないけど)した青春ロードムービー。監督は去年の話題作「ゼロ・グラビティ」を製作したアルフォンソ・キュアロン。「パンズ・ラビリンス」も「アズカバンの囚人」も彼らしい。幅広い。

フリオとテノッチは、高校を卒業したばかりの17歳。テノッチは政治家の息子。親には経済学部へ行けと言われているけれど、作家志望の彼は本当は文学部に入りたい。フリオは秘書の母と姉との三人暮らし。二人は親友というよりも悪友で、ふたりでつるんではくだらないやんちゃをする。バカンスを目前に、お互いの恋人がヨーロッパ旅行に行ってしまい、退屈な夏休みを予感する二人はドラッグやパーティをして明け暮らす。ある日テノッチの従兄の妻である魅力的な女性・ルイサと出会い、彼女とともに存在しない美しい海岸「天国の口」へドライブで向かうことになる。

メキシコのからっとした風景とは対照的な、思春期の男子のべとつくような性欲の強さにはおどろくばかり。二人の頭の中はセックスのことでいっぱい。ルイサと遠出するのも彼女とセックスしたかったからだろうし、二人の関係を変質させてしまう原因になるのも、テノッチのガールフレンドと寝たことがあるというフリオの告白。原題の”Y tu mamá también”は和訳すると「お前のママとも」これは終盤、フリオの母とセックスしたことを告白するテノッチの台詞。

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いつもばか騒ぎをして遊んでいても、二人の生活はなんとなく空虚感が漂っていて、現実感がない。二人が遊ぶのも、つるむのも楽しいからというよりは、ありあまる時間とエネルギーとをなんとかやりすごすためにしているように見えてしまうくらいだ。それとは対照的なのがルイサ。テノッチに「哲学者みたい」といわれるように、どことことなく物思いに耽っている、陰のある雰囲気をまとっている。彼女は早いうちに両親を無くし、彼女を育ててくれた親類が病気になったのを機に夢をあきらめ歯科衛生士になった。はじめての恋人は事故で失い、現在の夫からは浮気をしたことを告白される。明るく美しい彼女だけれど、人生でおきうるあらゆる不運を経験している。それに物語の終盤で明かされる、大きな秘密も抱えている。富裕層で遊び暮らす、能天気な二人とは正反対。三人は一緒に馬鹿話をしながら海岸へと向かうけれど、ルイサにとって、少年たちのただのひまつぶしもひとつひとつ重さを持っているのだろう。

二人はいつのまにか疎遠になる。街で偶然出会ってもよそよそしく、なんだか気まずい雰囲気が二人の間に流れる。その変わり具合がいい感じにリアルで、よくある青春ロードムービーと一線を画しているのかもしれない。二人の心に残った重さ、ビターさは、二人が精神的に彼女に追いついたときに突然迫って感じられるのだろうか。

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ベルリン、天使の詩(1987・西ドイツ)

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ドイツの巨匠ヴィム・ヴェンダースが監督し、後年ハリウッドでニコラスケイジ主演のリメイクもされた本作。

まだドイツがベルリンの壁によって東西に隔てられていたころに撮影された映画。だから舞台はベルリンだけど、この映画に登場するベルリンはもうどこにも存在しない。

 

天使ダミエルが空からベルリンの街を眺めている。天使といっても、金髪で白い服をまとった美しい少年少女じゃない。黒いコートを着た冴えない中年のおじさんたちである。天使は「永遠の霊」として地上に降り、人々に寄り添うのが仕事なのだ。彼らには人々の心の声が、ささやきのように聞こえる。人々の哀しみや怒り、絶望、希望に耳を傾け、時には肩を抱いていたわってやる。子どもは天使の姿が見えるが、大人には見えない。いつも通り街を彷徨っていたある日、ダミエルは空中ブランコ乗りの美しいマリオンに出会い、恋に落ちてしまう・・・というお話。

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 天使が見る世界はモノクロ。穏やかでシンプルだけど、とても単調で味気ない。しだいに主人公ダミエルは永遠につづく天使の生活に疲れを見せはじめ、人間の生活に憧れるようになる。劇中、彼はこう独白する「永劫の時に漂うよりも、自分の重さを感じたい 僕を大地に縛り付ける重さ、重力を」。 ダミエルが人間に変わり、映像がモノクロームから鮮やかなカラーに変わるシーンにははっとさせられる。世界に色がついた瞬間、ベルリンの壁の落書きや町並みは存在感を増し、互いにぶつかり合う。常に人間の営みを観察する第三者だったダミエルが、当事者へと変わり、そのざらざらな世界にひとつの存在としてたちあらわれ、また世界の要素たちとぶつかりあうのだ。さまざまな色が主張し合うことで、世界の粗雑さ、混沌さが明らかになる。でもその混沌さ、コーヒーの暖かさ、ダミエルの傷口から流れる血と感じる痛みのひとつひとつが「生」を強く感じさせる。

 

美しいものをぎゅっと凝縮して詰めたような映画。人々の心のささやき声や天使の独白のひとつひとつのことばが詩のようで。図書館で黙読する人々のささやきが重なり合い、ハーモニーになるシーンは特に圧巻。シンプルなストーリーラインを、詩的なことばとモノクロの映像美が装飾している。

 

少しでも眠いときは観ない方がいいけど、何か美しいものを観て心を落ち着かせたいときにうってつけの映画。とりあえず大好きでしかたがない映画。