女は女である

雑記帳

ホームシックをなおしてくれた本たち

どうやらわたしはホームシックにかかってしまったみたい。

日本の生活の中にあった、形容するのが難しいあの雰囲気をとてつもなく恋しく思っている。日本に帰りたいとは思わない。だって、帰ったとしても、私はきっとまた別の居場所を探そうとするだろうから。ボーヴォワールがいうように、場所をうつしさえすればもっと幸福になれるだろう、とわたしたちは思ってしまいがちだけど、本当は場所じゃなくて、その人のこころもちこそが大切なのだ。

人生とは、病院のようなものだ。そこでは患者それぞれがベッドの位置を変えたい欲望にとらわれている。この者は、どうせ苦しむなら暖炉の前でと望み、かの者は、窓際なら病気がよくなるだろうと信じている。

  私もまた常に、どこか違う場所ならもっといいに違いないと感じている。場所を移すということは、私がいつも自分の魂に問いかけているテーマなのだ。

  「いってごらん、我が魂よ、冷たくなってしまった哀れな魂よ、リスボンで住むのはどう思う?あそこは暖かいだろうし、きっとトカゲのように元気を取り戻せるさ。この街は海辺にあるんだ。建物は大理石で作られ、住民は野菜が嫌いなので木という木を引き抜いてしまうということだ。お前の好みに合っているし、光と鉱物と水で作られ、人々を元気にしてくれるんだ。」

  我が魂は答えない。

 「お前は動くものを眺めながら休息するのが好きだから、オランダに住むのはどうだろう、あの至福に包まれた土地で?お前は美術館で絵を見るのが好きだから、きっと気晴らしになるさ。ロッテルダムをどう思う?お前は人家の近くに係留している船の帆を見るのが好きだろう?」

  我が魂は無言のまま。

 「バタビアのほうがもっといいかもしれない。熱帯の美と結婚したヨーロッパの精神がそこにはあるから。」

  何の言葉も返ってこない。我が魂は死んでしまったのだろうか。

 「お前はとうとう、災いにしか楽しみを感じないほど麻痺してしまったのか。もしそうなら、死のアナロジーであるような国へ行こう。始末は私がするから、荷物をまとめてトルネオに旅立とう。いやもっと遠くへ、バルト海の果てまで行こう。出来ることなら、日常の生活からはるかに離れて。そうだ北極に住もう。そこの太陽は斜めにしか地面を照らすことなく、昼と夜がゆるやかに交代するおかげで、変化がなく、単調そのものだ。まさに死の片割れのようなところ。我々はそこでゆったりと闇につかり、北極のオーロラは我々を楽しませるために時折、地獄の花火が反射したようなばら色の花束を贈ってくれるだろう。」

  ついに我が魂は爆発し、さかしくもこう叫んだ。

  「どこでもよい!この世の外であるならば、どこでもよい!」

(N'importe où hors du monde/ ボードレール)

 

ただ、ぼんやりと、日本の生活をなつかしく、恋しく思っているだけ。帰る場所があるという淡い期待を抱ける、この恋しく思っている状態がもしかしたらいちばんよいのかもしれない。

この大学での生活は楽しい。仲の良い友人もいるし、お気に入りのレストランもあるし、なかなか美味しいお寿司を食べれる店だってある。授業の内容もぜんぶわかるし、日常のどうでもよいような会話をかわすこともする。日本の友達が恋しくなればスカイプできるし、フェイスブックをみればみんながなにをしているかはなんとなく想像できる。映画はいっぱい見れるし、本も読めるし・・・。

でも、どうしてもこの世界になじめない、空虚感をいだいている自分がいるのだ。ここは日本でないからかもしれないし、もしくは私が育った母国でないからなのかもしれない。だから、わたしがなじむことができる、なじむことをだれからもゆるされていると思える世界に身を置きたいと思っている。それがホームシックの感情をおこしている、のかも。 

なじめない、とおもうのは、ここでの毎日の質感が、私が慣れ親しんだ日本のそれと大きく違っているから。たとえば、テレビで流れる流行歌や、広告の配色やそのデザインや、アメリカ人の表情の作り方が、わたしにとってはなじみがないもの。そのを一種の系統として認識してしまう。黄色人種の顔の特徴に目がいってしまって、それぞれの顔を区別できない他人種ようなものだ。その表層の違い、スタイルの違いがいやに目について、その内容まで心が入り込めない。何を示しているかはわかる。ただそれがどのような位置にあるのかを判断することが出来ない。

 

その「入り込めなさ」に、息苦しさと違和感を感じてしまって、なにかもっと入り込めるもの、そしてわたしに入り込んでくれるものにすがりたいという感覚を覚えている。自分は疎外されているし(疎外ということばの調子はつよいけれど、これ以外に適切なことばが思いつかなかった)わたし自身もここにあるものをどこか疎外してしまっている。自分が「他者」であることをとことん思い知らされる。

 

ひらがなの曲線、文字だらけのネオンライトの街、大きなピンクリボンのついたダサいエナメルバッグ(サマンサタバサのかっこわるいピンクのバッグ)、みたいなものたちが作り出す、スピッツミスチルの曲が生まれえるあの雰囲気、あの洗練されていない「と思える」雰囲気を、とても懐かしく思う。

 

図書館で見つけた日本語の本たちを、いっきにぐぐっと摂取したら気分がだいぶ楽になった。考えてみれば11年前のノースカロライナ以来でこんなに海外に滞在するのははじめてだし、一人暮らしもはじめての経験なので、こういうふうになるのも当然なことだ。この感じは、ちょっといやだけど、こんな気分を経験できるのも留学の良さだなあと思っている。

 

本を読むと、自分の人生が多くの人生のたったひとつでしかないということを実感できて、すこしほっとする。それに、小説家の表現や視点を借りてみることで、自分の人生に対してもっと客観的になれる気がする。なやんでいることは、たいしたことないじゃないか、と思える。だからいものがたりといつもいっしょに暮らしていたい、と思う。


この土日で読んだのは以下のとおり。

何者

何者

 

 「何者」を読んでいる時、心臓がずっとどきどきしていた。クリスティの「春とともに君を離れ」と同じ鋭さ。これのおかげでホームシックはほとんど消え去ってしまった。甘いことをいってるんじゃない、どこでも、日本であっても、いつも息苦しさを感じていただろう、と思い出させられているようで、これからもこのままじゃ息苦しい人生が待っているよ、といわれているようでもあって。いろんなことに文句を抱いてしまいがちな私だけれど、その度にこの本を思い出そうと思う。

 そして、眩しいくらいにまっすぐで健康な心根をしている友人たちを、もっと大切にしなければと思いました。だってそういう人たちといっしょにいれば、彼らの論理が正しい世界がわたしのまわりに広がるから、わたしもそんな人間の一人になれる気がしそうだもの。

 

共喰い (集英社文庫)

共喰い (集英社文庫)

 

いつか詳しい感想を書きたい。 

 

苦役列車 (新潮文庫)

苦役列車 (新潮文庫)

 

 

アサッテの人 (講談社文庫)

アサッテの人 (講談社文庫)

 

 とてもびっくりした。こんなに素晴らしい本を読まずにいたなんて残念だ。「自意識の病」にかかってしまったひと、そして社会に違和感を抱いてしまった人すべてに「ぴん」とくる話だろう。予定調和の世界から逃避できるのか。という話。もう一度読む。

 

1Q84 BOOK1〈4月‐6月〉後編 (新潮文庫)

1Q84 BOOK1〈4月‐6月〉後編 (新潮文庫)

 

セックスに必然性が感じられない調子はあいかわらずだけど、ものがたりがドラマチックでおもしろくていつもみたいに細部のディテールが気にならない。

 

 

ハーモニー ハヤカワ文庫JA

ハーモニー ハヤカワ文庫JA

 

ライトノベル風の文章の調子に慣れるのにずいぶんな時間がかかった。表現は独創的だけど、あまりきれいだとはおもえなかった。

ディストピアの話で、オーウェルの1984の系譜を継承しつつ、現代の問題をおりまぜつつ、ライトノベルの調子をまじえているようなお話。斎藤純一先生の公共哲学の授業を思い出しながら読んでいました。物語をすすめるために歴史の事象をやら国際関係やらを使っていたのだけれど、そのあつかいかたが粗雑だったのが悪印象でした。

 

本を読んだらとても元気になったので、今週もリラックスしつつ頑張ろうと思う。