女は女である

雑記帳

"The Common SENSE”/アン・ハミルトン(Henry Art Gallery)

わたしが通うワシントン大学には、ヘンリー・アート・ギャラリーという画廊がある。大学附属だけど、有名なキュレーターのついたれっきとしたギャラリーで、これまでも世界中のアーティストの展示が企画されてきたらしい。

 

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シアトルについてからしばらく閉まっていたのだけれど、それはアン・ハミルトンの”The Common SENSE”を設営する準備のためだったみたい。 

今回はそのアン・ハミルトンの”The Common SENSE”について書きたいと思う。

 

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アン・ハミルトンは、1966年にオハイオで生まれたビジュアル・アーティスト。ビデオ、彫刻、写真、音楽、テキストなど、さまざまなメディアを用いて独自のインスタレーションをつくりだす。この展示でも、ギャラリー中に実際にワシントン大学の所蔵品である衣装、動物の剥製、毛皮、新聞紙、童話、サラマーゴやキャロルからの引用などが彼女の意図に沿って展示されている。ギャラリー全体でひとつのアートをなしているといってもいいくらい。

 

 

 

 

この”The Common SENSE”では、わたしたちは人間の認識、触覚、ことばの関係性についてあらためて考えることになる。ハミルトンは『「触覚」こそがすべての生きとし生けるものに共通する感覚である』というアリストテレスの引用を紹介している。

 

 

 

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このギャラリーで一番大きな部屋に入ると、死んだ動物(=剥製)の、壁を埋め尽くしている断片的なイメージに圧倒されることだろう。その不気味とさえ思えるイメージたちは、大学に附属しているバーク博物館からもちだされた動物の剥製を、スキャナーにかけ、新聞紙に印刷したもの。動物はどれも体の一部しかうつしだされていない。上半身、頭、くちばし、しっぽ、脚、というように。カエルの脚は鳥のお腹の写真のとなりにおいてある。体のパーツは、他のパーツと切り離され、まったく関係のないコンテキストである白い壁にかけられているのだ。スキャナーは、実際にそのガラスに「触れ」た部分しか明瞭に映し出すことをしない。その他の部分は背景に溶けるように、ぼんやりとしか見ることはできない。他のパーツと切り離され、白い壁という無関係なコンテキストに張り出され、「触れ」た部分のみがくっきりと見えるこの状態で、わたしたちは、かつて大地や木、その仲間たちに触れたであろうそれらのパーツひとつひとつに思いをめぐらせることになる。

 

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それぞれのイメージは実は大量に印刷されていて、鑑賞者は好きなイメージをやぶりとって持ち帰ることが出来るインタラクティブ・アートでもある。そして、これは下の階にある、ギャラリーを訪問した人々をグラシンペーパーにうつしだした人間のポートレートの作品と対照をなしているようにも思える。時間が経つごとに、より多くの人がギャラリーを訪れ、ポートレイトのうつったグラシンが増えるごとに、動物のイメージは減っていくのだ。いくつかの体のパーツはすでに消えてしまい、一番下にひそんでいた白い紙が、ひらひらと風にそよいでいる、その光景は、空虚感のような感情をわたしに抱かせた。おそらく人間の過剰な、無遠慮な欲望が、動物の絶滅につながるということをあらわしているのだろう。

 

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一番下の階には、白いカーテンがかけられたカートがずらっとならんでいる。病室、もしくは遺体安置所を連想させるような、ぴりっとした、ある種荘厳な雰囲気だ。カートの迷路をとおりぬけ、カーテンをひくと、そこには毛皮のコートが静かに横たわっている。プラダのラビット・ファーコートや、アラスカのエスキモーのファーマフラー、それぞれのカートには違う国で違う時代につくられた、毛皮を用いた服飾品が配置されている。人間を風雨から守ってきたのは、いつも動物の皮膚だった。動物は自然の驚異から人間を守り、包みこんできたのだ。このインスタレーションはハミルトンからの、壮大な、これまでわたしたちを包みこんできた動物たちへの鎮魂/メモリアルなのだろう。わたしたちはこのインスタレーションを通して、これまでいかに人間が動物から恩恵をうけてきたのか、ということについて考えさせられることになる。

 

動物たちは、わたしたちをきびしい自然から守ってきただけではない。わたしたち人間の不可避な自己存在の曖昧さからもわたしたちを守ってきたのだ。この事実を示唆するのは、ギャラリーの隅にある小さな部屋の、壁の端にかけられた、一枚のモノクロ写真。注意深く鑑賞していなければ見逃してしまいそうなこの手のひらサイズの作品は、今回の展覧会のテーマには直接関係していないものの、人間と動物の関係性についてわたしたちに新たな視点を与えてくれる。この写真には、女性の口と、そこから生える無数の毛が写っている。モノクロの写真であるためにそのテキスチャはわからない。解説を読むまでは、それが馬の毛だとはだれも気づかない。わたしたちは、ほぼ自動的に、この光景、本来生えるべきでない毛が口から生えているという不自然な状況に、嫌悪感をもよおすだろう。メアリー・ダグラスという著名な人類学者は、人間はその体の外/内をあいまいにしてしまうものを「不潔」として、そして拒否反応を示すということを指摘した著名な「穢れ」論を、著書である『汚穢と禁忌』で著した。それこそがわたしたちにとって汗、爪、髪の毛、そして排泄物を、気持ち悪いものと感じさせる理由であることを指摘した彼女の理論はあまりにも有名である。からだの外のあるべきである、一束の髪の毛が、からだの内である、口の中から生えている光景は、わたしたちの身体の認識を混乱させる。この一枚の写真は、わたしたちがもつ自己存在の曖昧さ、を鋭く指摘しているのだ。長い歴史にわたって動物からつくられてきた衣服は、わたしたちの身体をつつみこみ、身体の外と内を定義する擬似的な境界線となり、わたしたちをその曖昧さから救うという一面をいだいてきたのだ。

 

この展覧会において特筆すべきことは、いたるところにアートワークだけでなく「触覚」に関するあらゆる文章が配置されているということだ。エリオットといった文学者から著名な哲学者まで、「触覚」についてさまざまな切り口から書かれた文章は、彼女のアートを解説するだけでなく、彼女のアートの一端をなしている。それぞれのことばは大量に印刷されているので、ことばを自由に収集し、自分だけの”The Common SENSE"という本をつくることもできる。ことばは、わたしたちの世界への触覚や認識を変容させていることを、アートを鑑賞し文章たちを収集する中で、強く実感することになるだろう。

 

さまざまな種類のアート、ことば、素材が彼女の意図によって位置されているこの展覧会で、たくみに配置されたありとあらゆるものは、色んな視点から意味を再構築することを促してくれる。どの部屋にいっても関係する作品に出会うように計画されていることで、集中が途切れてしまうことはない。ギャラリー全体を一つのイベントに用いることの効果、をまじまじと考えさせられた展示でもあった。

 

この展覧会は、わたしたちに人間と動物の関係性を再考させる。『「触覚」こそがすべての生きとし生けるものに共通する感覚である』ので、この展覧会はアートについてあまり知識がない、という人であっても、楽しむことが出来るものになっている。

 

4月までの展示なので、また行きたいな。