女は女である

雑記帳

映画を好む人には、弱虫が多い

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名画座に行きたい。中はがらんとしていて、薄暗くて、いつもタバコとコーヒーのいりまじったような匂いがする。だいたいおじいさんやおばあさんがちらほらと座っているだけだから、人ごみがどうしても苦手な私にはちょうどいい場所だ。古い椅子は、座るとギイとあやしくきしむ音がする。多くの人が座ってきた椅子に私も座ると、ふしぎなくらいに私の体がぴったりと収まることにきがつく。換気をしない小さな映画館では、あっという間に酸欠になってしまう。そのせいでやたらと頭がぼうっとしているから、私のおしゃべりな思考に邪魔されることなく、映像が、台詞が、こころにすっと染みてゆく。パソコンやテレビはそれ自体に存在感があるので、その存在が私と作品との純粋な関わりを妨げてしまうけれど、映画館ではあっというまにその世界に浸ることができる。名画座に入ったときはまだまだ外は明るかったのに、出る時にはもう辺りはすっかり夜になっていることにきがつくと、自分がまるで違う世界に長い間いたかのような気持になるものだ。

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「映画を好む人には、弱虫が多い。」と太宰治は言った。「私にしても、心の弱っている時に、ふらと映画館に吸い込まれる。心の猛っている時には、映画なぞ見向きもしない。時間が惜しい。」

 映画を好む人には、弱虫が多い。私もそう思う。たまらなく落ち込んでいたり、自己卑下の念にかられていたり、どうしようもなく不安な気持ちになっているとき、うす暗い映画館の片隅にある小さな席はこのうえない逃げ場所だ。チケット代を払ったから、その席に座る権利が私にはある。だれからも私の顔は見えない。だれも私を見ることはない。

 私はつねに受動的でいることができる。私は映画の中でおこっていること、とは直接的な関係がなく、安全な場所にいる傍観者でいられる(なかには第三者でいる観客の目を醒させようとするような映画もあるけど)。

 映画は、私の存在を一時的に消失させてくれる。私はただの傍観者で、私の人生の主人公ではない。映画の主人公が、2時間だけ私の世界の主人公に代わる。わたしの意識のすべてがスクリーンに、登場人物たちの表情に、モノローグに集中する。フロムは「人間の孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいというもっとも強い欲求を満たすための人間による行動」はお祭りとかアルコールとかセックスとか恋愛だっていっていたけれど、映画や本だってその役割を担っていると思う。自分が単体だということをわすれて、映画の中に溶解できる。

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 なにより、映画は弱者の生活にやさしい。社会的地位や成功、富など、今の社会の原理となっていることがらへの疑念のまなざしを向けるものが多い。野望なんて意味が無い。自分のこころの機微をたいせつにしなさい。自分の身の回りのものを大切にしなさい。日常生活ではなかなか信じることができないけれど、こう信じたら今の生活が楽になること、をうったえかけてくれる。

 冒頭の文章は、彼の「もの思う葦」というエッセイ集に納められた「弱者の糧」の序文の一部。彼はじっくり文章を読むくせがあるので、字幕映画が苦手だったそう。だから日本映画を好んで、海外のものはあまり鑑賞しなかったんだって。彼には映画は「芸術だと思っていない」そうだけど、今の多様化した映画を観たら考えを変えるかしら。